鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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「加藤画伯韓国訪問後援会について」『親和』第91号、1961年5月、p. 22。 加藤松林人「十八年ぶりのソウル」『親和』第118号、1963年9月、p. 30。 高應喆「刊行に寄せて」『韓国の美しさ』1973年5月。 高崎宗司『植民地朝鮮の日本人』岩波書店、2002年、pp. 201-207.999名の在朝日本人が登場するが、その中に画家として名前が記録されているのは32名ほどである。他分野では在朝日本人の研究が活発であるが、その中で美術家に関する研究は少ない。⑵日韓・在日の政治、経済、社会、文化、スポーツを掲載する月刊総合雑誌でANC社が刊行している。⑶黄正洙「朝鮮』、2018、pp. 175-188。⑷初版は、1958年5月に「加藤松林人作品頒布会」から刊行された。1973年には、改訂版として東京WUM学園出版部よりタイトルを『韓国の美しさ』に変え出版された。そして、2018年、高憲と河田宏の校訂で彩流社から復刻版が出た。⑸自筆原稿は縦書きノートに書いた履歴書を除くとすべて400字原稿用紙に書いている。加藤は自筆履歴書で「『回想の半島画壇』という、各々千枚近い三つの原稿を引揚げ直後にまとめておいた」と述べているが、今保管されている原稿は総479枚である。⑹加藤松林人の生涯については、自ら記録した『履歴書』(1979)をもとにした。自筆履歴書は、学歴、経歴、画歴に分けて年代別に構成されており、41頁に及ぶ。画号は、戦前は「加藤松林」を、戦後は「加藤松林人」をよく使っていた。⑺弟子の朝鮮人作家李玉順と第一高女出身中西ツグエなどは朝鮮美展で数回入選した。『京城日報』1928年5月8日。⑻加藤松林人『履歴書』、1979年、pp. 19-20。⑼加藤は清水東雲が他界した1929年、『京城日報』に「朝鮮画壇と清水東雲先生─二十年前回顧(一)-(四)」(1929年7月4日-10日)を連載し、清水東雲について詳しく書いている。⑽柴田善三郎、「朝鮮美術展覧会に就て」『朝鮮』第88号、1922年7月、pp. 2-4。⑾1時間に2円のモデル料を払って時間内に描くことが大変であり、モデルの女に写生の意味を説明しても通じないことに困っていたという。加藤松林人『回想の半島画壇』3、pp. 351-352。⑿ラワンチャイクン寿子「資料─作家・作品解説」『官展にみる近代美術』展・図録、2014年、p.261。⒀加藤松林人『回想の半島画壇』2、p. 220。⒁加藤松林人『私のノート』p. 76。⒂加藤松林人『回想の半島画壇』3、p. 461。⒃加藤松林人『私のノート』pp. 122-123。⒄『新世界新聞』は新世界新報社が『朝鮮新報』の日本語版として1946年から1991年まで発行した新聞である。⒅加藤松林人「朝鮮素材のもの─朝鮮を描いた画家と作品─」『親和』第11号、1954年9月、p. 3。⒆小栗一成『追記』1988、p. 1。⒇日韓親和会は日韓両国の「親和」と「友情」のための文化交流を目的とした親善団体で、初代会長・下村海南は機関紙『親和』創刊号に「『親和』は「日韓会談は決裂した」という歴史的事実から誕生した」と記されている。 画家 加藤松林」『日帝強占期韓日美術交流 日本画家 朝鮮― 98 ―― 98 ―

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