鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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⑩18世紀前期狩野派研究研 究 者:徳川美術館 学芸員  薄 田 大 輔緒言近年、江戸狩野派の再評価が進み、徳川幕府の文化政策の一翼を担ったその巨大画派の姿が徐々に浮かび上がってきている。しかし、研究対象となっているのは、江戸狩野派の祖と位置付けられる鍛冶橋家初代探幽(1602~74)とその周辺、木挽町家2代常信(1636~1713)ら18世紀初頭までに活躍した絵師、そして木挽町家6代典信(1730~90)ら18世紀後半以降の絵師たちである。すなわち、常信の次世代にあたる18世紀前期は空白期になっている。探幽の創り上げた江戸狩野派様式をひたすら墨守し続けたと批判されてきた狩野派だが、探幽を知る世代がいなくなった次に、探幽様式がどのように継承され変容したのかという、江戸狩野派研究では避けられない問題を内包する18世紀前期の研究が大きく欠落している。本研究では、この18世紀前期狩野派について考察を進めたいが、一大画派である江戸狩野派には一世代にも何人もの絵師がいる。そこで本稿では木挽町家の3代周信(1660~1728)と4代古信(1696~1731)の画業について考察を試みたい。木挽町家は典信以降に狩野派筆頭として盤石な地位を築くが、典信以前からも宗家中橋家と共に江戸狩野派の中心的な役割を果たした家である。まずは木挽町家の歴史を明らかにし、そこから狩野派研究を広げていく。1.探幽次世代の狩野派と周信、古信延宝2年(1674)、江戸狩野派の体制と流派様式を確立した探幽が歿した後に狩野派を率いたのは、探幽末弟で狩野派宗家を継いだ中橋家初代安信(1613~85)であった。安信は画論『画道要訣』のなかで、一代限りの天性の才能による「質画」よりも、修行によって培われた「学画」の重要性などを説いたことで知られ、この学画理念を作品に則して考察することも、探幽次世代の狩野派研究に残された重要な課題の一つである。さて、安信が統率者となったことにより、木挽町家の常信は中年期に不遇をかこったとされるが、安信の歿後には狩野派を率いている。特に、宝永6年(1709)の御所造営では最も格式の高い紫宸殿の賢聖障子絵を担当し、翌年には紅葉山御霊屋の障壁画や琉球中山王への贈呈画を描くなど幕府の重要な画事に携わった。常信の最晩年、宝永4年には常信の次男岑信(1662~1708)が6代将軍家宣の寵愛― 103 ―― 103 ―

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