鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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を受け松平姓を賜って浜町家を立てた。翌年には奥御医師並みに仰せ付けられ、狩野派初の奥絵師格となっている。しかし、岑信は同年47歳で父常信や兄で木挽町家を継いだ周信よりも早く他界してしまう。岑信が奥絵師となった最晩年、どのような立場にあったのか詳細はわからないものの、存命中は父兄が未だ健在である。岑信が名実ともに狩野派の頂点に立つことはなかったであろう。浜町家も岑信歿後に姓を狩野に戻している。さて、常信の歿後に狩野派の中枢にいたのは、朝鮮王朝への贈呈屏風制作、宝永度の内裏造営で中心となっていた安信の甥で中橋家を継いだ主信(1675~1724)、また主信より16歳年上であった周信であった。鍛冶橋家は、探幽の息子探信守政(1653~1718)と探雪(1655~1714)が分かれて一家を成したため権限が低下したと考えられている。では周信についてみておこう。常信の長男で、母は安信の次女。中務卿法眼、如川、泰寓斎と号す。延宝6年4代将軍家綱に御目見えし、正徳3年(1713)に木挽町家を継いだ。享保4年(1719)に法眼に叙され、同年には朝鮮国王へ贈る屏風を制作している。また、木挽町家は諸藩からも画事を頼まれることが多かったようで、例えば仙台藩4代藩主綱村に常信と周信が抱えられ、古信も享保年間初めから同藩の御用を勤めた(注1)。周信に関する評価はいくつか残されているが、その内容は概して否定的である。江戸時代では、湯浅常山(1708~81)の『文会雑記』に備前の画工長谷川如辰(生年未詳~1757)の狩野派批判が収録されており、その中に「近頃周信ガカキクヅシテ、埒モナキ絵ニナリタルハ、最早ワレヲ押ス絵ハナキト云ホコル心ヨリ、大事ノ戒ヲ忘レテ、散々ノコトニナリタルトナリ」とある。注目すべきは如辰が周信に画を学んだ絵師といわれ、周信の画を間近で見ていた人物からこのような批判が出ている点である。さらに、近代の批評で有名なのは岡倉天心で、「周信、岑信ニ及ンテ気力消磨シ殆ント父祖ノ衣鉢ヲ伝フル能ハサルニ至リ栄川ノ巧緻ヲ以テ第三変ヲ試ミタレトモ其余勢長大ナラス」(注2)とある。現代の研究でもこのような見方は変わらない。中谷伸生氏は「周信は木挽町狩野家の歴代当主のなかでも、それほど才気のある画家ではなかったように思われる」(注3)と評価された。次に、周信の息子古信は、宝永8年に6代将軍家宣へ御目見えし、正徳3年に初めての御用を勤めた。また、後述するように吉宗に引き立てられ、重要な画事を任されている。享保13年には木挽町家を継ぐが、3年後に36歳で世を去ってしまう。この時跡継ぎであった典信は僅か2歳であったため、木挽町家から分かれた浜町家の玄信を― 104 ―― 104 ―

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