養子に迎えるが、玄信も同年に17歳で夭逝。結局、典信が当主となる。この典信が奥御用を仰せ付けられ江戸狩野家の頂点に立つのは30年以上後のことである。狩野派研究では、古信と8代将軍吉宗との関係は注目されてきたが、古信の画自体についてはあまり関心を持たれてこなかった。狩野派研究で再び注目されるのは典信であり、典信には探幽画からの図様の引用が目立つことが指摘され(注4)、描法でも探幽様に倣いつつも新風を加えていったことを明らかにした(注5)。ただし、典信による探幽学習を考えるには、典信以前の狩野派が探幽様式の何を継いで何を変化させたのかについて明らかにしなければならない。確かに、探幽の軽妙洒脱とよばれる余白や筆墨、人物の図様や容貌表現などは江戸狩野派に底流する。一方で、明らかに探幽様式とは異なる画風も江戸狩野派には認められ、それぞれ絵師の様式が確立していることがわかる。では、周信、古信の様式について考えてみたい。2.狩野常信と次世代における画の継承と変容まず常信とその次世代の絵師たちの制作態度を確認しておく。この点で興味深いのが、「六義園図」(郡山城史跡・柳沢文庫保存会蔵)〔図1、2、3〕である。「六義園図」は上巻を常信、中巻を周信、下巻を岑信が担当した父と兄弟の合作で、大和郡山藩・柳沢家の駒込下屋敷の庭園・六義園が描かれている。制作年は上巻に記された常信の落款「法眼養朴」から常信が法眼に叙された宝永元年(1704)から岑信の没する宝永5年の間である。一見してわかる通り、三人ともに軽みのある彩色を基調とし、特に山肌は彩色の濃淡を絶妙に変化させて単調になるのを避け、その上に点描で樹々を表し、裾野で余白へ溶け込ませていく。また、樹木や岩は水分を含んだ緩くおおらかな墨線で象っていく描法でいずれも近似している。むろん、探幽様式に起因する表現だが、狩野派を率いた常信が自らの様式で派を統一させようとした可能性が示唆されるように(注6)、「六義園図」では周信・岑信が父常信の画風を踏襲したのであろう。しかし、場面の展開や構図をみていくと、その差異を大きい。構図は常信が主に近・中景表現で景観を展開させている一方、周信は奥行きがある構図を用いている。この相違は、それぞれ景観の特徴に沿ったためとも考えられるが、広がった湖の周辺に樹木や岩組を配して対岸を描く両者共通のモチーフで構成された景観でも、常信は積極的に奥行きを持たせていない。また、常信が余白で大胆に場面転換するのに対し、周信は一部を除いて自然に場面を繋ごうとしている。岑信になると、一続きの景観であるかの如く、モチーフを連続させており、空間表現が最も整理されている。このこと― 105 ―― 105 ―
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