と松の図様、第3扇下部の太湖石が、探幽筆「両帝図屏風」(根津美術館蔵)の左隻を反転してそのまま用いられている。このように画のフレームとして配される樹木や岩をそのまま引用することは珍しい。実際、周信には「観漁労図屏風」をはじめ「琴棋書画図屏風」(個人蔵)、「唐子琴棋書画図屏風」(個人蔵)、「東方朔西王母図屏風」(ボストン美術館蔵)、「七福神図屏風」(個人蔵)など、楼閣とその前庭に人物を描く中国故事人物図屏風は多く残されているが、いずれも「両帝図屏風」からの引用や古信「琴棋書画図屏風」との類似は認められない。これは常信の同主題画においても同様で、木挽町家で引き継がれた構図ではなく、古信はわざわざ探幽の構図を引用したとわかる。また、模本「古信筆唐子遊図」(徳島県立博物館蔵)は探幽筆「唐子遊図屏風」の図様を引き継いでおり、線描を重視して描かれた岩や樹木が加えられている。古信の大作は僅かしか知られておらず、探幽画との関係は更なる資料、作品の発見を俟ちたい。最後に周信と古信が仕えた吉宗についてみてみよう。5.吉宗と古信古信の場合、その画業に大きな影響を与えたのは8代将軍吉宗(1684~1751)である。周信も7代将軍家継の肖像を描いた功で享保2年(1717)に吉宗より銀25枚が与えられるなど吉宗政権下で活躍したが、吉宗が重用したのは古信であった。吉宗が先導した享保期の文化政策は、復古的(古書の調査・蒐集、古文書の採訪、狩や宴、染色や調度品などの伝統文化の復興)と、進取の気性(洋書の解禁、珍獣植物などの輸入)という二つの姿勢が根底で結び付きながら特有の文化を生んだと畑麗氏が指摘された(注13)。そして、この政策は古信の画業にも影響を与えていくことになる。まず、前者では吉宗が諸大名家に対し、各々が所持している「古キ絵」を古信に写し取らせたことが挙げられる(注14)。その時に模写されたのが、雪舟筆「山水長巻」(毛利博物館蔵)や狩野永徳筆「唐獅子図屏風」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)などで、享保の名画狩りと呼ぶに相応しい一大事業であった。また、諸家に分蔵されていた牧谿の「瀟湘八景図」も、吉宗が一堂に召し寄せて鑑賞した際に古信に臨写させている。次に、進取の側面では「鳥獣鷹象写生図巻(象・獣)」(東京国立博物館蔵)など一連の禽獣の写生図が挙げられる。吉宗の命で、鷹や鹿狩の写生を行った古信は、享保13年に清国の商船によってもたらされた象も写生している。畑氏は象の顔に陰影法が用いられていることを指摘し、西洋画を見聞していた将軍に仕えた絵師の懸命な努力と見られている(注15)。古信は吉宗のもと、このような御用を仰せつけられた― 108 ―― 108 ―
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