鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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① 初期フランドル絵画におけるイメージと宗教的実践─「聖母の七つの悲しみ」信仰とホアン・デ・フォンセカ─研 究 者: 日本学術振興会 特別研究員PD(青山学院大学文学部)本稿では、16世紀初頭にネーデルラントからスペインへ「聖母の七つの悲しみ」信仰を齎したパレンシア司教ホアン・デ・フォンセカの芸術擁護に着目し、彼がブリュッセルで注文した《聖母の七つの悲しみ》三連画〔図1〕に関連付けられた贖宥と宗教的実践に関して考察する。後述するように、「聖母の七つの悲しみ」信仰は1490年代にネーデルラント各地に設立された同名の兄弟団に起源をもち、ブルゴーニュ=ハプスブルク一族の宮廷において大きな支持を集めた。なかでも1499年にブリュッセルで創設された兄弟団は同信仰の普及において重要な役割を果たした。フォンセカは1505年に同兄弟団に加入したが、その際彼が注文した《聖母の七つの悲しみ》三連画は、現在でもパレンシア大聖堂内の元来の設置場所にあり、更に両翼にイメージの前で行われるべき行為と、それによって獲得可能な贖宥に関する詳細な銘文が記されており、同時代におけるイメージと宗教的実践の関係を考察するうえで示唆に富む作品である。ホアン・デ・フォンセカホアン・ロドリゲス・デ・フォンセカ(1451~1524年)は、優れた聖職者・政治家・そして芸術愛好家として知られた人物である(注1)。1484年4月、カスティーリャ女王イサベル一世(1451~1504年)専属チャプレンに任命され、その後アラゴンのフェルナンド二世(1452~1516年)によって王室礼拝堂の主任チャプレンに任命された。更にバダホス(1495年)、コルドバ(1499~1504年)、パレンシア(1504~14年)、ブルゴス(1514~23年)、ロッサーノ(1519年)で司教を務め、自身の管轄下にあったこれら諸聖堂のために数多くの板絵・装飾写本・建築装飾を供給した(注2)。フォンセカはフェルナンド王とイサベル女王によって王室の大使として複数回に及んで国外に送られた。両王の第二皇女ファナ(1479~1555年)は1496年10月にフィ― 1 ―― 1 ―   杉 山 美耶子Ⅰ.「美術に関する調査研究の助成」研究報告1.2018年度助成

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