⑫カンディンスキーの初期作品について─パリ滞在時の象徴主義との接点─研 究 者:宮城県美術館 学芸員 赤 間 和 美1.はじめに ─問題の所在と本研究の目的モスクワ生まれの画家ヴァシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky, 1866-1944)は、モスクワ大学法学部助手の職を経て、1896年にミュンヘンに移住後、アントン・アズベ(Anton Ažbe, 1862-1905)の私塾に学び、1900年にミュンヘンの王立美術アカデミーに入学後、象徴主義の画家フランツ・フォン・シュトゥック(Franz vonStuck, 1863-1928)に師事した。翌年、ミュンヘンで展覧会を組織するためのグループ「ファーランクス(Phalanx)」を結成し、その附属学校で教鞭をとった。初期の作品については、「ハウスカタログ(Hauskatalog)」(先行研究にならい、以下、「ハンドリスト」とする。)としてカンディンスキー自身によってまとめられている。これは、ポンピドゥー・センター、フランス国立近代美術館が所蔵するニーナ・カンディンスキーの遺贈資料に含まれるもので、このうち、1900年から1909年の作品の記録である「ハンドリストⅠ」は全80頁からなる(注1)。初期の作品のなかでも、「彩色ドローイング(Farbige Zeichnungen)」と画家が位置づけた不透明水彩、同様の手法によるタブロー、そしてそれと併行して取り組まれた木版画は、フランスの象徴主義の拠点のひとつとなった『新傾向(Les Tendances Nouvelles)』誌と密接に係わっていたという点で重要である。『新傾向』誌は、フランスの画家であるアレクシス・メロダック=ジャノー(Alexis Mérodack-Jeaneau, 1873-1919)を編集長として1904年5月に創刊されたものであり、後に「国際美術文学連合(lʼUnion Internationale des Beaux-arts et des Lettres)」の機関誌となった。『新傾向』誌とカンディンスキーの関係を検討した先行研究については、ファインバーグが同誌の復刻版を刊行しており(注2)、カンディンスキーの芸術理論に対するフランス美術界の影響を立証しようとした基礎的な研究がある(注3)。その後、デルーエによるカンディンスキーの展覧会(注4)、バーネットによる彩色ドローイングを所収した水彩画のカタログレゾネの刊行、アンジェ美術館のル・ヌエンヌによるメロダック=ジャノーに関する展覧会(注5)などによって検討されてきた。国内でも、西田秀穂などによるパリ時代のカンディンスキーに関する論考のなかで言及されている(注6)。本研究では、これらの先行研究を踏襲し、『新傾向』誌を起点として、パリのサロ― 127 ―― 127 ―
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