鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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リップ美公と結婚したが、フォンセカはフィリップとファナが統べるブルゴーニュ=ハプスブルク宮廷に1500年と1504年の二度に渡って派遣されている。特に二度目の渡航は、フィリップとファナに1504年11月26日に崩御したイサベル女王の遺志を伝え、カスティーリャ王国の将来を彼らと協議するという重要な使命を帯びていた。フォンセカがブリュッセルの「聖母の七つの悲しみ」兄弟団に加入したのは、この第二回目のブリュッセル訪問に際してであった。「聖母の七つの悲しみ」信仰は、1490年代に司祭でありフィリップ美公の秘書でもあったヤン・ファン・コウデンベルフ(1521年没)によってアッベンブローク、レイメルスワール、ブルッヘの諸聖堂において「聖母の七つの悲しみ」に捧げられた頌詩を画枠に伴う聖母の板絵を奉納したことに端を発する。「聖母の七つの悲しみ」は、「神殿奉献(シモンの予言)」、「エジプト逃避」、「幼子イエスをエルサレムの神殿で見失う」、「十字架の道行」、「磔刑」、「十字架降下」、「埋葬」から構成される。ネーデルラント各地に存在した兄弟団のなかでも、1499年にブリュッセルで創設された兄弟団にはフィリップ美公を始めとした国内外の宮廷人が数多く所属しており、国際的なネットワークが構築されていた(注3)。1499年から翌年にかけて計6085名の会員が登録し、16世紀初頭にかけて拡大の一途を辿ったが、メンバーの中には数多くの画家・彫刻家が所属していた他、マクシミリアン一世、フィリップ美公、マルグリット・ドートリッシュ、カール五世などの錚々たるメンバーが名を連ねていた。1505年に同兄弟団に加入した際、フォンセカは前年に自身が新たに司教に就任したパレンシア大聖堂に同信仰を齎すという着想を得たようだ。このヴィジョンはパレンシア大聖堂における彼の一連の芸術擁護計画において開花する。ブリュッセルから帰国した後、1505年4月にパレンシア司教に就任したフォンセカは、同大聖堂の改築と新たな装飾品及び典礼用品の供給を開始した。1509年12月19日には、新たな主祭壇を初期フランドル派の画家でありカトリック両王の宮廷画家であったフアン・デ・フランダスに注文した〔図2〕。主祭壇装飾に続き、フォンセカはトラスコロ(第二内陣)及び障壁の建設と、その西・南・北側にあたる壁面に副祭壇を設置する決定を下した(注4)。1513年11月12日、フォンセカは大聖堂参事会とトラスコロに関する計画の第二段階に関する契約を交わした。聖堂参事会の記録によると、「彼が既にあらゆるものを与えた」祭壇画を備えた祭壇をトラスコロの障壁西側に設置することが決定された(注5)。ここで言及されている祭壇画が、ネーデルラント派の画家カルカーのヤン・ヨーストに帰属されている《聖母の七つの悲しみ》三連画である(注6)。恐らくフォン― 2 ―― 2 ―

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