ある。事業の一環として『新傾向』誌が1904年6月1日にパリで開催した展覧会には、カンディンスキーの作品が含まれていた(注9)。デルーエによれば、『新傾向』誌への出品リストのある1904年5月9日付けのメモがニーナ・カンディンスキーの遺贈資料に残されており、油彩小習作が含まれていた(注10)。また、ル・ヌエンヌによれば、その後、メロダック=ジャノーは、故郷のアンジェにおいて1905年8月に連合の展覧会を開催したというが、いずれも、その詳細は明らかになってはいない(注11)。第13号(1905年10月)を境に、『新傾向』誌の表紙タイトルはアール・ヌーヴォー風の書体となった〔図3〕。また、少なくとも、第23号(1906年8月)以降、連合は、「国際美術文学科学産業連合(lʼUnion Internationale des Beaux-arts, des Lettres, des Sciences et de lʼIndustrie)」(以下、同様に「連合」とする。)と名称を改めているが、これ以降も国際美術文学連合という名称を併用している。第26号(1906年12月頃?)(注12)では、カンディンスキーによる木版画が表紙を飾り〔図4〕、ジェローム=マエス(Gérome-Maësse, 生没年不詳)による記事「カンディンスキー 木版画、イラストレーション」とともに、カンディンスキーによる木版画が8点掲載された。ジェローム=マエスは、編集長であるアレクシス・メロダック=ジャノーの偽名であると推測されている(注13)。ジェローム=マエスは、機械技術による手仕事の衰退を嘆き、古書の挿絵のような美しい職人的な仕事を理想とした。そして、カンディンスキーの彩色ドローイングは「非常に独創的であり、夢にあらわれたもの、あるいは、その裏で強烈な光が揺れ動く、スクリーンの上に描き出されたシルエットのような印象を残した」としている(注14)。そして、「彼の言語は秘儀を伝授されたもの(initié)のそれ」であり、「より高次の自己(moi supérieur)」によって「親密で内的なヴィジョンをわれわれに見事に要約」したものであった(注15)。つまり、ジェローム=マエスはカンディンスキーに神秘主義的な幻視者のような性格付けを行っているのである。以降、『新傾向』誌には、カンディンスキーの木版画が挿絵として掲載された。上述の第26号から第29号(1907年4月?)、第34号(1908年2月?)から第36号(1908年6月?)、第40号(1909年2月?)において、計33種の挿絵を確認することができ、特に興味深いのは、カンディンスキーが1903年にモスクワで刊行した木版画集『言葉なき詩(Stichi bez slov = Gedichte ohne Worte)』に含まれる15点うち、少なくとも13点が『新傾向』誌に再掲されたことである。掲載を確認できない2点は、表紙〔図5〕と《はなやぐ生(Gomon = Bewegtes Leben)》〔図6〕のみである。― 129 ―― 129 ―
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