⑬近代化する浮世絵研 究 者:福井県立美術館 学芸員 前 田 詩 織はじめに明治年間、末期浮世絵を支えた歌川派絵師の一人である楊洲周延(1838-1912)は、世の流れに従って博覧会等への出品や新聞挿絵を手がけるなど美術界において幅広く活躍しているが(注1)、一貫して浮世絵版画の制作を続け、従来の形式を守って美人画や役者絵を描いた。本稿は、明治30年(1897)から翌年にかけて版行され周延の代表作ともされる揃物「真美人」〔図1~36〕を分析対象とした浮世絵版画の近代化をめぐる試論である。1、楊洲周延と「真美人」の評価楊洲周延に関するこれまでの研究の蓄積は決して厚いものとはいえず、詳細が明らかでない点も多いが、わずかに遺された手記や書簡類から前半生をうかがい知ることができる(注2)。はじめ歌川国芳に師事、その後歌川国貞(二代または三代)、さらに豊原国周に学ぶが、本格的に画業を展開させるのは齢40を数える明治10年(1877)の西南戦争錦絵が評判を得てからのことであった(注3)。ほぼ明治全期を活動期としたことから“最後の浮世絵師”の一人とも称された人気絵師である(注4)。「真美人」は周延が59歳の時に制作した大判錦絵揃物で、新図が出る度毎に広告が載っており〔図37、38〕、当時の人気ぶりを知ることができる。同作は後世においても「彼の一生の傑作」と評されるところである(注5)。本作は大首絵形式竪一枚の美人画全36図から成り、これに加え、版行完了後に出された紫曙堂桂花による序文(大判二枚続)がある。版元は日本橋室町の滑稽堂(秋山武右衛門)。女性を描き分け一枚に一人ずつ描き収めるという従来の美人画揃物を踏襲する形式であるが、画中には描かれた女性の身分や状況を示す背景の描き込みや、副題、彫師印など文字による情報が一切書かれず、出版人や刊行年月日、シリーズの通し番号も目立たぬよう極めて小さく薄い色の文字で余白に記されるのみであるという点は、本作の重要な特徴として挙げられる〔図39〕。繊細な彫りや明るい色彩、空摺も多用した緻密な摺りなど当時の職人たちの持てる技が惜しみなく注がれており、画面の穏やかな印象とは裏腹に、執念を感じさせるほどの超絶技巧には圧倒される。また洋装美人、童女、女教師など「真美人」で周延が描く対象は幅広く、こうした内容の豊かさゆえに現在も高く評価され、研究者の間ではその近代性を強調する向きが― 139 ―― 139 ―
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