鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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強い(注6)。先行研究においては題の「真美人」の「真」には新時代の美人という意味を込めて音の通じる「新」を重ねているとされる(注7)。2、「真美人」が描かれた時代明治期に流行した写真や石版画は、浮世絵版画の延長線上にあった(注8)。明治初期に登場した写真舗は明治9年(1876)には数百を数えるまでになり写真館も次々と開業、写真舗で売られた手札判写真は全国規模で爆発的な人気を呼び、まさに浮世絵版画を脅かす勢いであった(注9)。日下金兵衛の横浜写真に代表される輸出用の風俗写真も人気で(注10)、やはり江戸以来の浮世絵版画から抽出されたような図像によって"日本らしさ"を誇張気味に表していた。また石版画では明治10年代から20年代に額絵と称された砂目石版による一枚絵が流行、主題の多くを浮世絵版画から採っており、直接的に全てあるいは部分的に浮世絵版画の図様を転用した例が多く見られる。周延のほか芳年といった同時代の人気絵師による作品、国貞をはじめとする江戸期の作品を敷き写したようなものが作られており(注11)、明治20年代の絵草紙屋では木版による浮世絵版画と石版額絵とが同数程度売られていた(注12)。手札判写真、風俗写真のような商業的写真や石版額絵は共に、リアリティのある画面を特徴としながら必ずしも現実を写したものでなかった点は興味深い。写真や石版に表現としての芸術性が意識されるようになるのはもう少し時を待たねばならなかった(注13)。当時の写真は修正を施すことが前提であり、むしろ修正技術の良し悪しが写真の完成度を決定づけるものでもあった。また例えば、鈴木真一や日下金兵衛らの風俗写真に頻繁に見られる化粧をする女性を写したものには、鏡の中に別撮りした顔写真をはめ込みあたかも鏡に顔が映っているかのように演出しているものがある。こうしたモチーフの自由な組み替えは石版額絵も同様で、同一図様の作品に別の芸者の名前を記して売るものや、モデルとなった女性の写真の顔だけを使いまわし、さまざまな背景や衣装を当てがうコラージュのような作例は挙げれば遑がない(注14)。筆者は「真美人」が直接的に写真を意識しその形式に擬して制作されたものであると考えられることを強調したい。白い枠の中に無地の色面を設けて人物が浮かび上がるように表す画面形式は、まさに同時代の台紙に貼りこまれた肖像写真あるいは石版額絵のそれを思わせるだろう。題名の「真美人」には明らかに「写真」の意が込められたものと考える。ここで本作と写真との密接な関係を示す事実を指摘しておこう。小川一真が明治35年(1902)に撮影・発行したちりめん写真帖『東京百美人 Geisha of Tokio』には「真― 140 ―― 140 ―

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