鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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美人」の図様を再現したような美人写真が複数収められている〔図40~56〕。明治24年(1891)、浅草に完成したばかりの凌雲閣では写真投票による日本初の美人コンテスト「百美人」が催され話題となったが(注15)、その際に写真撮影を担当したのが小川であった。写真は『凌雲閣百美人』として写真帖に仕立てられ販売された。その後も「百美人」と題する多くの写真帖が作られ、海外向けにも出版されていた(注16)。周延「真美人」との図様一致が指摘できる前掲の『東京百美人 Geisha of Tokio』も海外輸出を目的としたものだろうか。発売はちりめん本の刊行なども手掛けた博文館である(注17)。写真を強く意識して制作されたと考えられる浮世絵版画の「真美人」を、逆に写真が模したという具体的な例であり、そのいずれもが海外での流通を前提としていたと考えられる作品であることも看過できない。「百美人」のコンセプトは歌川国貞「江戸名所百人美女」(安政4~5年刊)の流れを汲むものとされ(注18)、また小川の写真については月岡芳年の浮世絵版画の影響が指摘されており(注19)、当時の写真の主題が浮世絵版画の影響下にあったことは本稿でも既に確認した通りであるが、同時代作品との明らかな共通性、図様の一致は両分野の関係性について論じていく上で非常に重要である。引き続き調査対象としたい。3、周延画における美人様式の特徴と「真美人」を形成する要素周延の錦絵に見られる美人様式は、活躍が目立ち始める明治10年(1877)から晩年に至るまでそれほど大きな変化はない。顔貌の表現には江戸錦絵以来の歌川派、とりわけ師の国周の影響が色濃く、美人像は国芳門下であった同世代の落合芳幾らと比べるとより理想化され、人形のような風情を持ち、首や肩が細く顔に対して手足は極端に小さく華奢な印象を与える。月岡芳年などが写実性を重視し艶かしい女の肉体を描き表そうとしたのとは対照的であるといえる。姿態に若干のぎこちなさを感じさせるが、生々しさが廃され、そのために普遍性を備え、観念的ともいえる。明治期には良妻賢母育成のための女子教育の重要性が唱えられ、明治14年(1881)に小笠原清務が『小学女礼式』を出版して以降、浮世絵版画、双六や石版額絵では新たに女礼式、勉学、茶道、華道などが描かれるようになった(注20)。手習いや点茶の場面などは日常的なものとして江戸期の浮世絵版画にも多く見られるが、明治期の作品は美人風俗というより、説明的で教育的な色合いを濃くする。特に安達吟光や周延に女礼式を主題とするものが多い〔図57〕。そして「真美人」に見られる花を生ける図、茶を点てる図、勉強する童女の図、洋装の女学生の図、眼鏡をかける教師の図は、女礼式主題作品の群像から一人を切り取って大首絵にしたような図像となってお― 141 ―― 141 ―

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