鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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注⑴明治15(1882)の第一回内国絵画共進会で褒状、続いて明治17年(1884)第二回内国絵画共進会で銅牌を受けている。また明治26年(1893)のシカゴ・コロンブス博覧会に「徳川時代婦女図」を出品した。そのほか明治25年(1892)「改進新聞」掲載の樋口一葉による連載小説の挿絵を担当(平成21年(2009)に再発見された記事が台東区立樋口一葉記念館に寄贈され、平成29年(2017)には同館で展示された)。また輸出を目的としたちりめん本も多数制作している。⑵鈴木浩平「楊洲周延と神木隊について─手記『夢もの語』に記された箱館戦争での記録」『浮世絵芸術』157号 国際浮世絵学会 2009、鈴木浩平「楊洲周延=橋本直義年譜」『楊洲周延=橋下直義─高田藩士が歩んだ浮世絵師の道─』 上越市立総合博物館 2012⑶鈴木浩平氏によれば、西南戦争錦絵と呼ばれる浮世絵版画全体のおよそ4分の1を周延作品が占めている。⑷大正元年(1912)10月2日の『都新聞』掲載の周延の訃報記事の中で「周延翁の美人画を継ぐ者なく国周没後の江戸画は翁を以って全滅に帰せるものなり惜しむべし」という記述が見え、当時既に周延が特に美人画を得意とした“最後の浮世絵師”と目されていたことがうかがえる。⑸吉田漱・千頭泰(共編) 「楊洲周延論・同錦絵目録」『季刊浮世絵』43号 画文堂 1970⑹前掲注⑶の鈴木氏ほか、Bruce A. Coats,ed., Chikanobu: Modernity and Nostalgia in Japanese Prints,Hotei Publishing, 2006、河野結美「周延の浮世絵版画にみる近代とノスタルジア─『真美人』を中心に」(『季刊日本思想史」77号 ぺりかん社 2010)において、タオルや洋傘といったそれまでの浮世絵版画に描かれることのなかった事物が取り上げられているということを以って「真美人」の近代性が主張されている。⑺新藤茂「楊洲周延序論」『没後100年 楊洲周延 明治美人風俗』 平木浮世絵美術館 2012⑻岩切信一郎「浮世絵版画としての石版画─石版額絵と錦絵の比較研究─」描かれた明治ニッポン展実行委員会編『描かれた明治ニッポン~石版画〔リトグラフ〕の時代~〈研究編〉』毎日新聞社 2002また浮世絵版画と写真における美人図像について言及したものとして、田口文哉「美人画の道具立て〈盆栽〉─その置かれた場から見る」『ウキヨエ盆栽園~盆栽デ、明治ヲアソブ』 さいたま市大宮盆栽美術館 2012、脇田美央「明治期視覚文化から読み解く「横浜写真」の女性表象:金兵衛写真を中心に」『近代画説』21 明治美術学会 2012、我妻直美「浮世絵と写真」『浮世絵から写真へ─視覚の文明開化─』青幻舎 2015。⑼脇田美央「明治期における写真概念と「写真的なもの」:写真の視覚性とメディア性コンセプトを中心に」『鹿島美術財団年報』29号 鹿島美術財団 2011⑽西村智弘氏は横浜写真のピークを明治25年(1892)頃に置き(『日本芸術写真史 浮世絵からデジカメまで』美学出版 2008、84頁)、木下直之氏はその輸出の頂点を明治29年(1896)と指摘する(『写真画論 写真と絵画の結婚』岩波書店 1996、92頁)。⑾特に、多作であった渓斎英泉や歌川国貞の美人画の中で繰り返し描かれ江戸期浮世絵版画において既に定型化しつつあった風俗描写が写真に取り入れられ、石版額絵に流用されたとみられる。具体的には、化粧する、髪を洗う、扇を持ち舞う、琴を弾く、傘をさすといった女性像。尚、美人写真の小道具としての傘の有用性については我妻氏も言及している(「浮世絵と写真」『浮世絵から写真へ─視覚の文明開化─』青幻舎 2015)。⑿岩切信一郎『明治版画史』吉川弘文館 2009、120頁⒀打林俊『絵画に焦がれた写真 日本写真史におけるピクトリアリズムの成立』森話社 2015― 145 ―― 145 ―

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