鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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「訪問者よ、私たちの七つの悲しみを思い起こしなさい、そうすればそれらの悲しみはあなた方の日々に恩恵を齎すだろう。シメオンは、聖母の魂が剣によって貫かれ彼女の息子の傷を抱くだろうと予言した。そして敬虔な幼児たちが虐殺された際、私は危険ではあったが息子とともにエジプトへと向かった。そして私は神殿で神聖な事柄を伝える息子を探すという苦しみを味わった。私は彼が捕まえられ、十字架の重荷を背負い、釘づけられ、非情な死を与えられたのを見た。彼は十字架から降ろされ岩穴に埋葬され、私の心を打ちのめした。これら一つ一つの悲しみを私たち自身の悲しみとして思いなさい。そうすれば私の息子が救済の根源であることを感じるだろう。」(注8)聖母が一人称で直接的に語り掛けているこの頌詩は「聖母の七つの悲しみ」信仰の創設者ヤン・ファン・コウデンベルフの要請に基づき制作されたものであり、1492年にアントワープでヘラルト・レーウによって出版された『聖母の七つの悲しみの良き修練(Goede oefeninghe van sonderlinghe vij ween)』を含む複数の兄弟団向け小冊子においても繰り返し言及されていることから、「聖母の七つの悲しみ」信仰の信徒にとっては極めて馴染み深いものであったと考えられる。ラテン語の頌詩に続き、作品の成立背景と、このイメージの前で行うべき宗教的実践に関する指示がラテン語と中部カスティーリャ語で記されている。「主の降誕から1505年後の年、誉れ高く、主の恵みによってパレンシア司教にしてペルニア伯となったホアン・デ・フォンセカは、カスティーリャ等を統べるフィリップ公の大使としてブラバントのブリュッセルを訪れた際、聖母マリアの受難の物語に捧げられたこの聖なるイメージを注文した。このイメージの前で跪き、主の祈りと天使祝詞を各々七回唱えた者は、贖宥を得るであろう。これらの祈りを唱えた兄弟団の団員らもまた、兄弟団に与えられた教皇勅書の中で述べられている数多くの贖宥を獲得するだろう。」(注9)典礼における機能に加えて、祭壇画は観者に恩寵を執成す役割も有していた。両翼の銘文は、イメージの前で行われる宗教的実践によって獲得できる異なる二つの贖宥について言及している。先行研究において看過されてきたものの、これらの贖宥は作品の機能を検討する上で重要である。第一の贖宥は広範な者が獲得できるタイプであり、イメージの前で各々七回─聖母の悲しみの数に対応する─主の祈りと天使祝詞を― 4 ―― 4 ―

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