鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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⑭日本の邪鬼と護国信仰研 究 者:東京藝術大学大学院 美術研究科 博士後期課程  山 田 美 季はじめに仏教美術に登場する鬼神のうち、四天王像をはじめとする神将像足元の「邪鬼」をとりあげる。その目的は上に立つ神将像との相関性を念頭に置きながら、中国および朝鮮半島との比較検討を通して、とりわけ日本の邪鬼の造形と意味を明らかにすることである。鬼・鬼神は仏教受容以前より各地域に土着的に存在し、これまでも宗教学や民族学をはじめとする多角的な観点から研究の蓄積がある。邪鬼もまた鬼の類のひとつとして取り上げられてきた。本研究ではこれら研究の成果に導かれつつ美術史の立場から邪鬼に特化し、日本における大陸からの影響という視座に立ちながら、神将像に課せられた護国信仰とそれに付随する邪鬼との関係に着目する。そのうえで本稿では、大仏殿様四天王像にともなう邪鬼の造形とその思想背景に注目する。東大寺大仏殿様四天王像とは、鎌倉再建期の東大寺大仏殿内に安置された四天王像(以下、再建期像)の形式を受け継ぐ諸像のことである。この図像は鎌倉時代以降、四天王像のひとつの規範とされたが、ここでは邪鬼も例外ではないことを指摘する。さらに再建期像が創建当初の造形(以下、創建期像)をどの程度継承しているのかということについて一連の展開を見据えながら考察し、その思想背景についても論及したい。一、大仏殿様四天王像本体に関する概要(一)鎌倉再建期における大仏殿四天王像の形姿と展開考察の前提として、まずは大仏殿様と呼ぶことの可能な作例について四天王本体の形姿の特徴を確認する。京都・醍醐寺所蔵「東大寺大仏殿図」(以下、「大仏殿図」)には大仏殿に安置された四天王像と邪鬼の像容や色が記され、弘安7年(1284)の年記があることから、それが鎌倉再建期のものであることが知られる(注1)。これによれば建久6(1195)年8月に造立され、持国天は青色、増長天は赤色、広目天は肉色、多聞天が黒色の身色を呈しており、それぞれ赤色、黒色、赤色、青色の邪鬼を踏む。形姿は持国天が右手を挙げて三鈷戟をとり、左手を腰に当てる姿、増長天は右手を腰に当て、左手は三戟の矛をつく姿、広目天は右手に筆を執り、左手に経巻を持つ姿、多聞天は右手を挙げて宝塔を据え、左手に三戟刃の矛を執る姿である。この形式を受け継ぐ四天王像を大仏殿様と呼ぶ(注2)。なお大仏殿様像本体の表現には古様― 150 ―― 150 ―

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