鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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個の造形大仏殿様四天王像のうち持国天分と増長天分はともに伏して上体を起こし頬杖をつく姿勢を特徴とするのだが、このかたちは奈良時代末から平安時代初期の作例に類型ないし祖形を求めることができる。奈良・東大寺戒壇堂四天王像持国天分(8世紀中頃)や東大寺法華堂四天王像持国天分(8世紀中頃)、奈良・興福寺東金堂四天王像持国天分(8世紀末~9世紀初)がもっとも早い類型だろう。頬杖はつかずに両前肢は胸前で組んでおさめるものの、伏した姿勢で上半身を大きく反る姿勢であらわされる。奈良・興福寺北円堂四天王像増長天分〔図8〕、広目天分(延暦10年〔791〕)はさらに大仏殿様邪鬼のかたちに近く、頬杖をついて上半身を支える造形を示しており、大仏殿様邪鬼の祖形として位置付けられよう。この一連のかたちは上に立つ四天王像が片脚を踏みあげることで、四天王像本体の動きや足元の空間の変化に連動して造られる邪鬼の典型のひとつと考えられ、歴史を通してあらわされる。広目天分と多聞天分のように、ほぼ直立し両脚を並置させて立つ本体の足元で身体をぴたりとつけて地に伏す邪鬼の姿も、奈良時代以降に典型として定着するかたちである。大仏殿様の広目天分はうつ伏せになりながら視線を本体に向けるのだが、こうした細部の表現も東大寺戒壇堂四天王像多聞天分などにさかのぼる古いかたちを踏襲している可能性がある。また大仏殿様の多聞天分に特徴的な後肢を前に投げだす姿勢は先に触れた通り創建期像を踏襲するものと考えられるが、具体的には興福寺東金堂広目天分などに同じような後肢の動きを確認できる。以上のように個々の造形を検討する限りにおいて、大仏殿様邪鬼はいずれも奈良創建期に祖形が求められ、鎌倉再建期像の造像に際して新たに導入されたような表現は見受けられない。おおむね創建期像に倣うとみてよいだろう。二頭一対の組み合わせ一方で大仏殿様四天王像本体は、持国天と増長天、広目天と多聞天の二体が一対となって左右対称をなし(注7)、持国天と増長天が互いに身体ごと内側を向きながら顔と視線が正面に向かうよう、鎌倉再建期に再編されたことが指摘されるが(注8)、同じような傾向は邪鬼にもみられる。すなわち持国天分と増長天分、広目天分と多聞天分が二体一対の対称的な造形を示し、いずれも顔は正面を向きながら四頭が頭部を中央に向けることで求心的な全体観がうまれている。右前肢を中心方向にまっすぐ伸ばす増長天分の仕草や、やや体勢を斜めにして中央に向かって前傾する多聞天分の姿も、こうした造形意識にもとづくものと推察される。鎌倉時代、大仏殿様邪鬼以前の作例をみても頭部の方向や形状について持国天分と増長天分、広目天と多聞天分を二― 153 ―― 153 ―

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