鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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頭一対の意識で造形する例は管見に触れず、創建期とは異なる形式として、四天王本体の再編にともない意識的に整えられたと考える。三、大仏殿様四天王像邪鬼にみる思想背景以上の検討をふまえ、大仏殿様邪鬼における古典図像の継受と改変それぞれに対して、邪鬼があらわされる必然性や機能に目を向け、そこにいかなる思想背景が伴っていたのかということについて、四天王護国思想をコンテキストに解釈の諸相の一端を示したい。(一)奈良創建期像邪鬼の造像意識とその継承みてきたように大仏殿様四天王像は本体および邪鬼ともに基本的に復古意識にもとづく造像であり、足元の邪鬼は調伏される姿を特徴とするものであった。もとより大仏殿様の祖形である奈良創建期像は、律令国家における古代モニュメントとして位置付けられる。諸国国分寺の総国分寺である東大寺は国家鎮護を目的に創建されたが、金光明四天王護国之寺の称をもつこの寺にとって四天王像はまさに創建意図を具現化したものであったと考えられる。その思想は『金光明経』および『金光明最勝王経』を所依の経典とし、四天王に護国を委ねる四天王信仰もこれらを典拠とするものであった。わが国の邪鬼は7世紀から8世紀を造形の大きな転換期としており、上に立つ四天王像を支える善鬼としての姿が淘汰され、調伏される悪鬼としての姿が典型となる。筆者はかつてこれについて論じたことがあるため詳細はそちらに譲るが、造形の転換期における背景には、護国思想のもとで律令国家を脅かすあらゆるものが厄災とみなされるなか、国土の守護が託された四天王像の足元の邪鬼が安寧を脅かす諸悪の表象とみなされた可能性が考えられよう(注9)。邪鬼という造形には、四天王に与えられた役割を示す存在としての機能があると解せられるのである。さてこうした古代とは異なる政治体制のもとで、鎌倉時代の南都復興事業が何を継承し変更したのかという問題を考えねばならないが、先に触れたとおり大仏殿様四天王像には当初像を踏襲する造形意識が認められる。吉田文氏も述べられるように創建当初の造形を復古するということは、すなわちその尊像の有する性格─由緒や信仰を保持することが再興における大前提であったことが推察されるだろう(注10)。たしかに治承4年(1180)の兵火によって南都は炎上し、東大寺大仏殿も全焼し焼失したのだが、この前代未聞の出来事は日本の仏法の滅亡として捉えられ、東大寺の伽藍復興は日本仏法を再生する意味を持ち合わせていたという。その意味で東大寺の再建は寺家の再建にとどまら― 154 ―― 154 ―

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