鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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ない国家事業として認識されていた(注11)。復興事業は焼討の後まもなく開始され、まさに内乱のさなかで平和への政治的社会的秩序の確立の象徴として進められたのである。では再興大仏殿において四天王像はどのような存在であったのだろうか。先行研究にならえば、『南無阿弥陀仏作善集』東大寺の項目には「長日最勝御読経」と記され、大仏殿において大仏を囲繞する四天王による国家守護の功徳を説く法会が行われていたことがわかる。この法会については『東大寺造立供養記』にも「長日令講談最勝王経」とあり、再興大仏殿においても四天王が『金光明経』および『金光明最勝王経』に説かれる護国にまつわる尊像として認識され、ふたたび造像されたと理解することができる(注12)。再興大仏殿四天王像において、当初像を踏襲する意識が強くみられることも、こうした信仰の継承と切り離せるものではない。ゆえに邪鬼の造形にも当初作からの大きな変更は認められないのではないか。(二)大陸図像の選択的な受容――結びに変えて――大仏殿様邪鬼から想起される、再興大仏殿の邪鬼が奈良時代にさかのぼる古い造形を踏襲していたことは論じたとおりだが、このことは当代の請来図像との比較からも明らかである。たとえば、江蘇省において蘇州市の瑞光寺塔から発見された四天王木函がある。北宋・大中祥符6年(1013)の銘のある木箱の四側面には各面に一体ずつ四天王像が描かれ、それぞれ足元には二頭の鬼神をしたがえている〔図9〕。ここにその造形を概述すれば、持国天分と広目天分は類型をなし、二頭のうち左方が腰を下ろして右肩で本体の左足を担ぎ、右方はうずくまり背に本体の右足を受ける。増長天分はともに腰を下ろし、左方は両肩に右方は左肩で本体の各足を担ぐ。多聞天分はともに前屈みの姿勢で立ち、背に本体の足を受ける。本作にあらわされる鬼神は本体を担ぐ、すなわち支える仕草が特徴的であり、背に本体を受ける姿も調伏される邪鬼とは異なり、苦悶の表情は浮かべずに台座としての役割をまっとうしているといってよい。腰を下ろして本体の足を担ぐ仕草の邪鬼は、旧浄瑠璃寺吉祥天厨子絵(建暦2年〔1212〕)にあらわされた四天王のうち広目天邪鬼の足元にも類型を見出すことができる〔図10〕。これらの事例からは必ずしも直接的ではないにせよ、瑞光寺塔像に代表される請来図像の影響が同時代の作例に確かに認められるのである。このように考えれば、再興事業において古典回帰と複走して新奇な宋風美術が積極的に導入されるなかで、大仏殿様邪鬼の造形が意図的に選ばれたのではないか。大仏殿様邪鬼には支える造形に象徴される善鬼としての姿ではなく、諸悪の表象として調伏される悪鬼としての姿があえて選択されたのではないかと考える。― 155 ―― 155 ―

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