鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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⑮近代大阪の洋画研究─明治から大正期を中心に─研 究 者:大阪中之島美術館準備室 学芸員  高 柳 有紀子はじめに大阪における洋画の歴史は、中央画壇と軌を一にせず、また京都画壇のように軸となる人物が存在しなかったため、一つの流れとしてとらえることが難しい。特に明らかにされていないのは、明治後半から大正初めにかけての洋画家たちの活動についてである。明治20年代には大阪初の洋画展覧会の開催、関西美術会の結成など活発な動きがみられるものの、関西における洋画の中心を京都に譲った明治30年代後半からは、目立った活動が認められなくなる。大阪の洋画界に注目が集まるのは、大正後半に多数の洋画研究所・団体が設立される時期を待たなければならない。本稿ではこれまでほとんど注目されてこなかった明治後半から大正前半の、洋画家による2つの活動に注目する。一つは大正5年に結成され、1回の展覧会をもって解散した「大阪洋画会」、もう一つは、明治39年に創刊された関西初の漫画雑誌『大阪パック』である。この考察により、大阪の洋画史の空白を埋める一助とするとともに、大阪の洋画を語る上での新たな視点を示したい。1.大阪洋画会の結成と解散大阪洋画会については、存続期間の短さからか、大阪の洋画史を論じる文献や関係作家の研究では、その存在すら触れられないことが多い(注1)。しかし実際は、その後を担う若手の台頭が顕在化した、大阪の洋画史におけるエポックメイキングな出来事であったといえる。以下に、当時の新聞・雑誌等の文献調査を基にし、同会の結成から解散までを詳述する。大阪洋画会は大正5年5月、松原三五郎、櫻井忠剛、榊原一廣、安藤静也、赤松麟作、広瀬勝平、松本硯生、山内愚僊、織田東禹、小笠原豊涯の10名を発起人として発足した。目的は洋画の振興普及と作家相互の知識交換、親睦等であり、毎年1、2回の展覧会を開くこととした。設立の動機に、大阪における日本画家や彫刻家の団体が先に成立したことがあり、洋画家も団結をめざしたと考えられる(注2)。趣意書には「時代に迂遠なる我等老生発起となり、今回大阪に於ける洋画家の組織的集団を作る」と記されていた(注3)。発起人はいずれも、明治30年代後半には大阪での活動が認められるベテランたちである。松原、山内、松本、櫻井は明治34年に― 160 ―― 160 ―

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