設立された関西美術会(第3次)の発起人であり、長く大阪、関西の洋画の中心にあった(注4)。織田、広瀬、赤松、安藤は次の世代に当たり、赤松を除く4人は関西美術会の第1回、第2回展に出品が認められる。赤松は少し遅れて明治37年、大阪朝日新聞に入社し来阪した。小笠原は明治38年の関西美術院の発起人の一人で、明治40年に大阪時事新報に入社。榊原も関西美術院の出身で、明治40年の来阪である。30代半ばと若い榊原が大阪洋画会の発起人に加わっているのは、展覧会場である髙島屋との関係性によるとみるのが妥当であろう(注5)。発起人の顔触れからは、大阪の洋画界は約15年間ほとんど沈静化していたように見える。実際、明治30年代後半の大阪の美術界は、全般的に目立った活動が見られず停滞していた(注6)。しかしながら、大正5年7月に開催された第1回大阪洋画会展は、多数の洋画家が大阪に存在することを示し、世間に驚きを与えた。160人を超える500点以上の応募作品の中から93名が入選となり、鑑査者(発起人)の作品を加えた160点が、心斎橋髙島屋にて一堂に展示されたのである。鈴木氏亭は大阪の洋画界について、山内愚僊、松原三五郎による草創期を第一期、赤松麟作、広瀬勝平、宇和川通喩、安藤静也らが来阪した時期を第二期とし、大阪洋画会の結成により第三期が訪れると予測した(注7)。実際、入選者の顔触れを見ると、大正末以降の大阪の洋画界で中心を担う人材が揃っているのである(注8)。のちに信濃橋洋画研究所を設立する小出楢重と国枝金三。新燈社を主宰する青木宏峰。官展系の作家として名を馳せる油谷達、大久保作次郎。さらには、のちに四青社を結成する伊藤慶之助、辻愛造、小西謙三。小西は昭和初期にソ連の美術団体四美術社日本支部を開設する画家と同一と思われる。伊藤、辻は阪神間の若手画家グループ艸園会のメンバーともなる。松原三五郎の門下生からは文展入選経験のある高橋文三、住田良三が、赤松塾からは鶴丸梅次郎、高田弘四郎らが入選した。伊藤、辻、小西も赤松塾の出身である。大阪における洋画教育の場が機能し実り始めたことが分かる。出品作品で注目されたのは、国枝金三、青木宏峰、濱田葆光らの作品であった。国枝は山内、赤松に学んだ後関西美術院へ移り、この年の二科展で初入選するなど、頭角を現しつつあった。青木は関西美術院で洋画を、京都市立絵画専門学校で日本画を学び、大正4年には個展を開催して評判を得ている。濱田は不同社、太平洋画会研究所の出身で、大正元年に開催されたフュウザン会展に参加するなど、すでに前衛的表現を打ち出していた。小出楢重は文展に出品するも落選を続けていた時期で、出品したのは東京美術学校の卒業制作《銀扇》であった。二科展で樗牛賞を受けるのは3年後のことである。― 161 ―― 161 ―
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