鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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このように、様々な出自や背景をもつ若手作家の作品が一堂に示され、同展は大阪の洋画界に新たな時代の到来を告げるものとなったといえよう。実際、「若い人々の作品は拙くても呼吸が通っている、審査員連の作品は全部死んでいる」と発起人世代の表現の旧さを指摘する批評もあった(注9)。しかし、第1回展の成功にも関わらず、大阪洋画会は内部から崩壊する。きっかけは、酒席で織田明(東禹)が松原三五郎に対して暴言を吐いたという、芸術とは全く関係のない出来事であった。これが火種となって関係者間に感情的対立が生じ、場外での争いに嫌気がさした榊原一廣が退会すると、髙島屋という展覧会場を失い、大正6年2月、あっけなく解散に至ったのである(注10)。原因が芸術とは別次元のものであることや、問題を収めうる有力者が存在しないことなど、大阪洋画界の特徴がこの結末に示されることとなった。解散の決定打を放った榊原は、大正7年、濱田葆光、山下繁雄、国枝金三と精芸社を設立し、1回精芸社展覧会を開催する。東京生まれの山下は太平洋画会研究所出身、大阪に移住し軍鶏を描き続けた画家である。同社は芸術的には各自が求める方向へ真摯に進みつつ、作品発表の場を持つために団結したものであった(注11)。大正後半以降に結成される様々な団体の先駆けとも言えるが、その後大阪の洋画界は、流派や師弟関係、芸術上の主義によってまとまることはなく、いくつもの団体が次々に結成され、それぞれに活動することによって盛り上がりを見せていくことになる。大正12年には、洋画家を含む大阪の美術家の一大団体を設けようとして、行政主導で大阪市美術協会が創設されるが、ここでも人事をめぐるいざこざが繰り返された(注12)。そして同協会の設立から解散に至るまでの数年間で、大阪洋画壇の世代交代が一気に進んだとされるが、その議論の中心に小出楢重、青木宏峰、国枝金三、鶴丸梅太郎、高橋文三、油谷達、辻愛造ら、大阪洋画会展の入選者の名があることは、世代交代の萌芽はすでに大正5年にあったといえるだろう。では、一時の低迷を脱し、大阪洋画会展に多数の画家が集まった背景には何があったのだろうか。この間、有力者の移住、公立美術学校の設立、新しい美術運動の勃興など特筆すべき事柄は認められない。背景の一つに、百貨店の美術部開設の影響が考えられる。三越は明治40年、髙島屋は明治44年に美術部を開設するが、いずれも最初の開設地は大阪であった。それにより作品の展示会場が増えたのはもちろん、美術作品が商品として流通する場が生まれたことになる。中でも三越は、美術部開設当初から積極的に洋画を扱った。明治42年に太平洋画会・関西美術院合同の展覧会を開き、「非常の盛会にて入場者数数万人に― 162 ―― 162 ―

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