及び絵画の売約も太平洋千円、関西美術三百円という予想外の好況」(注13)を得る。同年秋には白馬会会員による展覧会を開催、同様に当たり企画となった。この2つの展覧会は、三越の恒例となり大正7年まで続いた(注14)。後年には団体の境界があいまいになったようで、大正4年の第13回洋画展覧会では、石川寅治、吉田博などの太平洋画会系、鹿子木孟郎、間部時雄ら関西美術院の画家の他、赤松麟作、広瀬勝平ら大阪勢を含む白馬会系の画家も出品している。ここに、黒田重太郎、青木宏峰、国枝金三ら関西美術院の若手作家、高橋文三など松原の門下生の作品も加わっている点は注目される(注15)。三越と髙島屋がいずれも、作品を陳列し販売する会場として大阪の地を選択したことは、美術の振興・浸透の度合いとは関係なく、純粋に販路として有効であるとの判断によるものであろう。売れ行きの良さは「大阪を唯一の金庫として東京の画家たちは不断同地に大小の作品を送って個人展覧会を開くことが年々盛んになって行く様である」と揶揄されるほどであった(注16)。一方、市民に美術が十分浸透したわけではなく、作品流通は呉服店という組織と販売技術に依るものであったことは、大阪で開催された第1回国民美術協会展が収支的に失敗したことでも示される(注17)。しかしながら、作品の販路があり、収入への道があるいうことは、画家にとっては活動の大きな動機であったはずである。百貨店主催展覧会の出品内容等についてはさらなる調査が必要であるが、商品価値が生まれ、流通する社会が成立したことは、大阪における洋画の発展に大きく影響したのではないだろうか。この地の美術を語る時、純粋な芸術的観点だけでは把握しきれない側面をも考慮する必要があるだろう。2.赤松麟作と広瀬勝平─『大阪パック』をめぐって大阪洋画の第二世代である赤松麟作と広瀬勝平は、東京美術学校の同期生であり、明治30年代半ばにそれぞれ新聞社に入社し来阪したが、作品発表の面ではなかなか活躍の場を見出せなかった不運な世代である。白馬会系の外光派表現は、大阪洋画の草創期を担った松原三五郎や山内愚僊らの古風な画風に比べて新しい表現であったに違いないが、大阪では発表の機会も話題となることも少なく、明治40年前後には停滞の中に留まることになった。そのような状況で、明治39年11月、関西初の漫画雑誌『大阪パック』が創刊される。これは前年に創刊された『東京パック』を強く意識したもので、ページ数、版型、多色刷りなどの体裁や構成・内容が類似したものであった。『大阪パック』には、近年様々な角度から焦点が当てられているが、洋画家の関わ― 163 ―― 163 ―
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