鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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りについては十分に論じられていない(注18)。漫画が洋画家の手によることは明らかであり、先行研究ではいずれも赤松麟作がその中心で、赤松塾の画学生が多数動員されたとする。また、関わった画家の一人として広瀬勝平が付随的に述べられる。しかしながら、赤松が同誌に関わったとする証言は、管見では見出されない。また、赤松は明治41年に大阪で二番目に古い画塾を開設しており(注19)、大阪朝日新聞を大正6年に退社している。この間、新聞に挿図を描き、月二回発行の漫画雑誌に執筆し、文展等に向けて絵画制作を行ったことになり、その多忙さは、赤松の画業の中で突出しているように思われる。確かに明治末頃の大阪で諷刺画といえば、赤松がまず想起されるであろう。明治38年の日露戦争講和に際して大阪朝日新聞が一大批判を展開した際、同社社員であった赤松が《白骨の涙》をはじめとする風刺画を描いたことはよく知られている。しかし彼自身は決して諷刺画が得意であったわけではない。新聞編集者と「漫画はきらいだ、もう描かぬ」とよくけんかをし、ついには政治漫画を描かせようとする編集側と衝突して退社に至っているのである(注20)。実際、明治末頃からの赤松の新聞挿絵は、政治風刺画よりも風景や静物など、絵画に近いものとなっていく。筆者は、赤松と広瀬に関する文献調査から、『大阪パック』に創刊より関わり、その漫画を主に担当したのは、赤松ではなく広瀬であったと考える。広瀬は大正9年に急逝したため関連文献は少ないが、『大阪パック』との関わりについての言及がいくつか見出される。羽様荷香によれば、同誌は明治39年10月、輝文館の植田熊太郎が創意し、当時大阪毎日新聞の記者であった羽様と広瀬が編集を引き受けたことで誕生したという(注21)。また、鈴木氏亭は「その後広瀬、織田の両氏は毎日新聞社を辞した。広瀬氏は大阪パックに、織田氏は印刷術の為に貢献し[中略]、更に大阪パックは宇和川、松田氏等の少壮を網羅した。赤松氏は来阪後間も無く研究所を梅田の停車場裏手に設けて、大阪に初めての洋風の研究所を作った」(注22)と伝える。しかし広瀬の没後、主に漫画史研究において、広瀬が同誌で果たした役割は赤松に置き換わっていく。大正13年には「[東京パックの模倣誌は]大阪における広瀬勝平、赤松麟作等の、大阪パックなるものであった」(注23)([ ]内は筆者による補足。以下同)とされ、さらに後年、「[大阪パックは明治]34年に《夜汽車》の油絵をかいて知られる赤松麟作を主筆として刊行されたので、その実力もあなどり難く、しばしば『東京パック』の関西での売れ行きをおびやかした。[中略]関西において多くの洋画家をそだてた人なので、弟子たちのアルバイトにも『大阪パック』を利用」(注24)したと記されるようになる。― 164 ―― 164 ―

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