これまで、赤松以外のこの世代の大阪の画家ついての研究がなかったため、画家研究の視点から『大阪パック』が注目されることがなく、漫画史の領域でのみ、創刊時の『大阪パック』=赤松麟作という説が定着してきた。この研究領域による認識のずれを解消する必要がある。同誌に携わった画家としては他に、宇和川通喩、山下繁雄、松田俊夫、青山熊治、田村孝之介を挙げることができ、赤松の門下生が多数関わったという説も再検証の必要があるであろう。ただ、『大阪パック』のどの漫画を誰が描いたのか、掲載漫画そのものから特定するのは難しく、その他の媒体における挿図との比較、関係者の証言の地道な収集などが必要である。現時点では前述の羽様の回想から、第2号の表紙は広瀬によるものと推測される。電車をつかみ取ろうとする鬼は時の内務大臣原敬で、鉄道をめぐる施策と利権に群がる人々を風刺した画である(注25)。顔貌の特徴や伸ばした腕など写実的に描かれた雲上の鬼に対し、地上の人々は漫画的に描写されており、広瀬のそれまでにないユーモラスな表現となっている〔図1〕。清水勲が指摘するように、国際問題や国内の中央政治を諷刺した『東京パック』と異なり、『大阪パック』は地元関西の問題や風俗、世相を中心に取り上げた(注26)。特に創刊からしばらくは政治色が薄く、のちの定番となる見開きを用いた政治風刺画も第2年第6号までは登場しない。その代わり第2年第4号までは、庶民の様々な姿を描いた戯画集が登場している。創刊号の当該ページは、『明治大正時事川柳』(注27)掲載図等との比較から広瀬勝平によるものと推定するが、様々な職業、立場、年齢の人物を巧みな線で表現し、ユーモアのセンスにあふれている〔図2〕。広瀬が所属した大阪毎日新聞は、政治風刺画に積極的だった朝日新聞と異なり、主に地域の事件や人々の暮らしのスケッチを掲載していた。市井の人々や身近な事件に向けた観察眼が『大阪パック』にも生かされたと考えられる。初期の同誌の特徴としては他にも、表紙の自由度が高いことが挙げられる。創刊から1年間の表紙は、タイトルロゴがそれぞれ異なるだけではなく、「大阪パック」「 パック」「おーさかパック」など、表記までもが号によって異なっている。担当した画家が、表紙を全面的に自由にデザインできたのかもしれない。創刊から大正前半までの『大阪パック』の執筆・編集に携わった人物については、これまでほとんど論じられてこなかった。しかし、美術家の仕事として注目すべき点は多数ある。広瀬勝平ら忘れられた画家たちの顕彰とともに、同誌の戯画を洋画家たちの表現の場として検証すると、この時期の大阪の洋画家たちの生き生きとした創作が発見されるのではないだろうか。明治39年という時期を考慮すると、広瀬らにとっ― 165 ―― 165 ―
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