注⑴大阪の洋画史については、増田洋「大阪洋画壇小史」『明治から昭和 大阪の洋画 遺作25人展』図録、梅田近代美術館、昭和48年、同「近代大阪の美術学校・画塾・展覧会について」〈1〉〈2〉『美をつくし』55、56号、大阪市立美術館、昭和43年11月及び昭和44年1月。展覧会として「大阪市立近代美術館[仮称]展覧会 美術都市大阪の発見 美術と大阪イズム」ATCミュージアム、平成9年。また筆者は、平成22年に企画・開催した「油絵の大阪─商都に生きた画家たち」展(大阪市立近代美術館[仮称]心斎橋展示室)で、明治から昭和初めの大阪の洋画家に焦点を当てた。大阪洋画会については田中豊による『新修大阪市史』第6巻(平成6年)の記述が最も詳しい。ては活動のメインフィールドともいえる媒体だったかもしれない。油彩画の制作・発表という面では停滞・低迷と言われるこの時期であるが、洋画家たちの注目すべき活動は、印刷媒体という別の領域において展開されていたのである。⑵『大阪時事新報』大正5年5月6日⑶鈴木氏亭「大阪の洋画と洋画会」『中央美術』第2巻第7号、大正5年7月⑷関西美術会は明治27年を第一次、明治29年を第二次、明治34年を第三次の結成とされるが、第一次については開催の事実が不確かである。田中豊「関西美術会」『大阪の歴史』第43号、平成6年⑸榊原一廣は明治40年三越呉服店に入社、のちに髙島屋呉服店図案部に移った。⑹『大阪毎日新聞』(明治40年2月3日)に「[大阪の絵画界の]その振るわざること久しからず、或いは大阪の如き商業地には未来永劫美術の振るわざるべきを感ぜしむる」とする批判的な記事が掲載された。⑺前掲注⑶⑻同展の出品目録は未確認であるが、7月5日の大阪時事新報記事により全入選者を知ることができる。⑼『大阪毎日新聞』大正5年7月10日⑽解散の経緯については『大阪新報』大正6年2月14日、『中央美術』第3巻第2号および第3巻第3号、大正6年に詳しい。⑾「精芸社作品展覧会」『みづゑ』第162号、大正7年8月⑿大阪市美術協会をめぐる内紛については、橋爪節也「大阪市美術協会結成における紛擾と『大大阪』の日本画壇・洋画壇」『大正期美術展覧会の研究』東京文化財研究所、平成17年を参照。⒀『美術新報』第8巻第11号、明治42年8月20日⒁『三越美術部100年史』三越、平成21年。また、三越百貨店の展覧会について、山本真紗子「北村鈴菜と三越百貨店大阪支店美術部の初期の活動」『コア・エシックス』7、平成23年を参照。⒂『美術週報』第2巻第25号、大正4年4月28日⒃「大阪における展覧会場」『現代の洋画』第2巻第1号、大正2年⒄国民美術協会は、広く芸術全般に係る問題を解決し芸術家共通の利益を保護することなどを目的とし、大正2年に設立された。会頭は黒田清輝。当初、関西と関東で交互に会員展を開催する予定であったが、大阪での第1回展で収支面に大きな損失を出し、西部展覧会は1度きりに終わった。山梨絵美子「黒田清輝と国民美術協会」『大正期美術展覧会の研究』東京文化財研― 166 ―― 166 ―
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