鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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に。参加者だけが配当を受け取り、その他の者は受け取ってはならない。前述の主席司祭と聖堂参事会員らも、その場所においてサルヴェ(・レジナ)の荘厳な歌ミサをオルガンと共に挙式するように。そして授禄者はサープリスを纏い、聖アントリンのクリプトへと繋がる階段の左右に、二つの歌唱団を形成し、身廊に設置された祭壇の前で、(即ち)聖母(のイメージ)の御前で跪くように。そしてフードを被った司祭は、聖母マリアと聖アントリンに捧げられた祈りを唱えるように。」(注15)ミサと聖務の創設に際して、フォンセカは「サルヴェ・レジナ」聖務のために3万マラベディを年間配当金として支払っているが、これは更なる「サルヴェ・レジナ」聖務を聖母の八つの主要な祝日の前日に挙げるための資金であった(注16)。スペインでは1362年以前に毎週土曜日のミサの後に聖母に捧げられた「サルヴェ・レジナ」を歌う慣習が成立していた。フォンセカが創設した「サルヴェ・レジナ」の場合、特異なのはその挙式方法である。毎週土曜の「サルヴェ・レジナ」に参加する授禄者は、二つの聖歌隊を形成し、それらは祭壇の前部に位置する聖アントリンのクリプトの階段の左右に配されなければならなかった。この「コーリ・スペツァッティ(Cori spezzati)」と呼ばれる配置は、祭壇上でミサと聖務を挙式する授禄者にとって祭壇画の翼部に記されたテキストを読むことを促したであろう。銘文で言及されている贖宥は授禄者たちへの「霊的報酬」であると同時に、彼らをイメージへと引き付け、その前で永続的に祈りを捧げるよう促す戦略の一環であったと考えられるのである。1514年2月に下されたフォンセカの寄進に関わる最終決定によると、ミサと「サルヴェ・レジナ」は既に祭壇の前で挙げられていたという(注17)。それゆえ、三連画はフォンセカが祭壇設置の許可を得た1513年11月から1514年2月の間に設置されたと考えられる。1514年6月に彼はブルゴス司教に就任するが、以降も継続してパレンシア大聖堂内部における聖母のイメージの普及・促進計画を進めた。1524年11月に亡くなる直前、フォンセカは15万マラベディを、《サルヴェ・レジナ》タペストリー連作〔図5〕の制作のために聖堂参事会に寄付した(注18)。本タペストリー連作の縁部分にはMCのモノグラムが認められることから、ブリュッセルのタペストリー制作者マルク・クレティフに帰属されている(注19)。フォンセカは完成を目にすることなく亡くなり、死後五年たった1529年7月20日にこれらのタペストリーはパレンシア大聖堂へと送られた。一連のタペストリーの縁部分には、彼の紋章とモットーと共に、B#B(ブリュッセル#ブラバント)のマークが施されている。このマークは1528年ま― 6 ―― 6 ―

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