3.「新様」像に関する文献史料3-1 明州開元寺の像「新様」像に関する文献史料の中で特に注目されるのが、紹興十五年(1145)江小虞撰『宋朝事実類縁』巻五一所録の、次の記事である。杭州有彫木匠孔仁謙、一時之絶手。嘗於杭州菩提寺造千手千眼大悲観音像、既畢、度置千手不能盡。凡数日、沉思如醉、一夕夢沙門語之曰、何不分形於宝焰之上、仁謙豁然大悟、如其置列焉、特為奇妙。後又於明州開元寺造一躯、如其法、千手之制、取於襄州画像、凡五百手各持物器、五百手結印、本神跡也。この記事が言及する杭州の木匠孔仁謙とは宋代の江南地方の地誌において、稀代の名仏師としてしばしば登場するが、宋より前の五代、呉越国の時代10世紀半ばに杭州や明州(現在の浙江省寧波)で活躍したといい、当時、杭州と明州にある仏像のほとんどは、彼が作ったものであったとまで言われていた(注9)。この記事は最後の一文で、孔仁謙が明州の開元寺に作った像について記す。現在の寧波にあたる明州は、当時杭州とならぶ一大仏教センターとして栄えていた。さて、記事によるとこの像は、夢に現れた沙門の助言に従って作ったもので、千手のかたちについては「襄州画像」を手本とし、その手は五百の手には物器を持ち、五百の手には印を結んだという。さらに、最後の「本神跡也」というのは「もとは神のつくるところであった」という程の意味であるが、これは「襄州画像」に言及するものと思われる。「五百の手に物器を持ち・・・」という表現はまさに「新様」像のように、千手の全てに持物、あるいは印をあらわすかたちを思わせる。この記事自体は先行研究でも紹介されてきたが(注10)、千手の全てに持物や印をとる様を彫刻で表すということが想像し難かったためか、この記事と「新様」像における千手の表現を結びつけるものは無かった。また、「襄州」とは現在の湖北省、襄陽市の辺りを指すが、「襄州画像」という書きぶりは、開元寺像が千手の表現を参考にしたというこの像が、寺の名前を省略しても通じるほど有名であったことを思わせる。3-2 襄州天仙寺の像そこで「襄州画像」についての記事を宋代の文献史料に求めると、この画像は当時かなり有名な像であったらしく、複数の記録が見出せる。詳しくは稿を改めて論じることとし、ここではその要点を述べる。まず、紹興十八年(1148)以降張邦基撰の『墨荘漫録』巻十は、「襄陽の天仙寺」の「正殿の大壁」に、「大悲千手眼菩薩像」が画か― 174 ―― 174 ―
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