れていたことを記す。「正殿の大壁」とは寺の金堂の主要壁を指すものと思われるが、伝説によるとこの像は、唐の武徳年間(618-626)の初めに寺にやって来て、壁画を画いた後に鴿になって飛び去ったという不思議な夫婦が画いたという。また、大観年間(1107~1110)の初めには「画工の武生」という者が、この像の写しを作成し、持っていたという。武徳年観といえば千手観音の最古の漢訳経典すらない頃であるから、記事の書かれた12世紀半ばの時点で既に、この像の制作年代があやふやになっていたことが窺える。しかし、観音の化身が像を画いたという点は『墨荘漫録』の記事にも通じており、同じ像を指すものと思われる。さらに重要なのは壁画の内容について詳しく記す、李復(?~1126)の詩である。襄州大悲像寳伽如来出海山、隠身自画如来像。三日開門孤鶴飛、満壁晬容現殊相。一首千臂眼在手、一一手執各異状。日月山嶽星宿明、鐘鼔磬鐸琴筑響。矛戟戈剣利兵鋒、缾(瓶)盋(鉢)螺巾宝錫杖。左右上下満大千(以下略)。(注11)詩によるとこの像の手は、各々が異なる形状をしており、その中には日月、山岳、星宿の他に、鐘、鼔、磬、鐸、琴、筑(琴に似た打楽器)といった楽器類、矛、戟、戈、剣といった武器、瓶、鉢、法螺貝、布、宝、錫杖などがあらわされており、これらが左右上下に満ちていたという。記された持物の中には、経典中に説く持物とは一致しないものが多いが、実はその全てが、先に挙げた11例の作例の中に見られる。須弥山や盆石など、詩の中に登場する「山嶽」に相当し得る持物や、鐘、琴といった楽器、供物の盛られた鉢などについては既に紹介したが、中でも興味深いのは、「星宿」という表現である。「星宿」とは印度由来の占星法で、二十八宿、十二宮、七曜が含まれるが、実は先の⑥台北像の持物の中には、黄道十二宮、すなわち十二星座の表現が見られるのである(注12)。そして十二宮は11作例のうち台北像にのみ見られる。詩が記す持物の種類からは、「襄州画像」の千手の表現が11例の「新様」千手像にきわめて近かったことが窺われるが、「星宿」という文言は、特に台北像が「襄州画像」そのもの、あるいは明州開元寺像のようにこれを模した像を写した可能性をも思わせ、注目される。3-3 「襄州画像」の信仰背景更に、「襄州画像」については、宋代の官僚がこの像を前に、雨乞いの儀式を行っていた史料が残る。管見の限り、最も古い記録は11世紀初めに遡るが(注13)、ここ― 175 ―― 175 ―
元のページ ../index.html#187