鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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では北宋を代表する散文家の一人で、熙寧六年から熙寧九年(1073~1076)にかけて襄州の知州を務めた曾鞏による祭文を紹介しておこう。曾鞏の文集、『元豊類稿』巻四〇には彼が知襄州であった頃に書いた祭文が録されている。又大悲祈雨文盛夏在辰、常暘為沴。稲将萎瘁、人用嗟憂。由吏治之不明、致奸和気、維仏乗之無礙、善済群生。是敢同祓精誠、虔祈覚蔭。覬滂沱於膏沢、俾浹洽於原田。用救焦枯、實依慈恵。文の題名は、「又大悲寺にて雨を祈った際に用いた祭文」という意味である。大悲寺とは、先に挙げた天仙寺の別称である。この祭文は冒頭で「盛夏在辰、常暘為沴。稲将萎瘁、人用嗟憂。」とまず、日照りが害を為し、稲が萎れ、人が嘆いていると述べた後に、これが「由吏治之不明、致奸和気」、つまり吏(官僚である曾鞏)である曾鞏の統治が致らないために、(天地の)和気が損なわれているせいなのだ、と述べている。宋代には、政治に不祥事があればそれは天地の和気を乱して災害を起こし、結果として農事を妨げる、との考え方が支配的であり、従って天候不順の際に、霊験のある像が祀られた各地の祠・廟や寺院でその解消を祈ることは、官僚の重要な務めであった(注14)。ここで文献史料から導き出せることをまとめておくとまず、明州開元寺には、特に千手のかたちについて「襄州画像」を真似て作られた、10世紀半ばの千手観音像があった。そしてこの像には、「五百手に物器を持ち、五百手に印を結ぶ」という、本研究で対象とした11作例と同様の表現が見られた。次に、開元寺像は名工孔仁謙が造った有名な像であったが、この像の手本となった「襄州画像」もまた、観音の化身が作った、特に千手の表現が優れた像として、当時よく知られていた。また文献に記された「襄州画像」の持物には、きわめて特殊な物が多いにも関わらず、それらはいずれも11作例の中に含まれている。さらに、曾鞏ら地方官の記録からは、「襄州画像」が雨をもたらす霊験像としても知られていたことが判明した。これらの記事はいずれも11世紀初めから12世紀の初めにかけて書かれており、この時期に「襄州像」や開元寺像のような「襄州様」像の知名度が増していったことが窺われる。記事の内容や成立年代に鑑みれば、その大半が12世紀から13世紀に比定されている「新様像」の淵源に、「襄州画像」があった可能性を考えてみても良いのではないだろうか。― 176 ―― 176 ―

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