鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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注⑴羅翠恂「唐宋代四川地域の千手千眼観音菩薩像」『明大アジア史論集』第18号(2014)345-359おわりに本研究で対象とした11作例を見渡した際に不思議なのは、千手の全てに持物と印をあらわす表現は共通しており、経典には見られない特殊な持物も一部の作例間で互いに重複しながらも、作例の媒体や表現方法、図像の細部には幅広いバリエーションが見える点である。つまり11作例には共通の淵源があることはほぼ確実と思われつつも、完全に一致する作例が一つも存在しないという点である。この現象を考える際に参考になるのが、孔仁謙が開元寺の像を造る際に、「千手の制」は「襄州画像」に倣った、そして「襄州画像」は壁画であったが、孔仁謙が造った像は彫刻であったと伝える『宋朝事実類縁』の記述である。つまり、「襄州画像」については、大観年間に武生が所持した写しのように完全な模写もあった一方で、千手の全てに持物と印をあらわすという同像の最も大きな特徴を枠組みとしつつ、ある程度の自由度を持って、新たな図像が生み出され、画像、彫刻の両方に作り替えられていった可能性が考えられるのではないだろうか。また、「襄州画像」自体が唐代のいつ頃、いかなる典拠に基いて制作されたのかは現時点では不明であるが、壁画が後世に真似られた時点では、典拠より形が重視されていたことは諸史料の内容から明らかである。このこともまた、図像にバリエーションが生じる理由の一つになったかもしれない。宋代には、新たな仏教儀礼が次々に成立し、広く行われるようになったが、それと並行して、儀礼に用いられる新たな像への需要も高まったと推測される。11作例がとる無数の持物の中に見られた多様性は、各地で行われた儀式における需要が反映された結果、生じたものとは考えられないだろうか。また、造形にある程度の自由が許されたことを前提とすれば、持物の中に多く含まれた、鉢に盛られた品物や楽器類は、功徳というよりも儀式の最中に用いられた供物や楽器を表した可能性も検討すべきであろう。「千手」の中に、多様な儀式で希求される様々な功徳を反映し得る「襄州様」の像は、汎用性の高い大変便利な像として、各地で重宝されたのではないだろうか。一連の像については、中国風の画風で画かれ、雨乞いの要素を強調する台北系の像や、施餓鬼会との関連性が考えられる四川系の像、といった系統毎に異なる図像の強調点の問題や、伝播経路の問題など、論ずべき点が多く残るが、これらについては今後の研究課題としたい。頁。― 177 ―― 177 ―

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