「負翼童子」と「聖母子像」は日伊養蚕貿易の推進であったようだが、明治6年(1873)の岩倉使節団の渡欧に際して一行に随行したほか、工部美術学校の創設や日伊文化交流に多大な貢献をし、また日本美術のコレクターとしても知られる。高橋由一との関わりでいえば、高橋由一をフォンタネージに紹介したり、息子源吉の工部美術学校への入学の口添えや学費の工面をしたりと一貫して友好的な関係であったと考えられる。フェー伯爵が明治10年(1878)に次の赴任地として再びブラジルに発つに際しては、高橋由一は自作の油絵《布引瀑布》を贈っている(注5)。しかしながら、明治11年(1879)1月にリオ・デジャネイロで印刷されたキヨッソーネ編纂のフェー伯爵のコレクション目録には、掛軸や巻物、墨画や模写などが記載されているが、高橋由一作品は含まれていない(注6)。今回の調査で行ったX線撮影によって、「負翼童子」の下にキリスト降誕の場面と思われる「聖母子像」が描かれていることが判明した〔図4〕。中央やや下に仰向けに横たわる赤子と赤子に差し伸べられた手と女性の顔、そして赤子の右には、ローブを纏った人物がはっきりと確認できる。この図像についても調査を進めているが、X線写真で確認できる図像からは作者や制作年等の特定につながる情報は得られず、謎は深まるばかりである。一方、「負翼童子」の図像については、修復によって画面の左下には赤褐色の矢筒がはっきりと見えるようになり、地面には花や草らしきものもわずかながら確認できるようになった〔図17、18〕。また、修復前には褐色と思われたキューピッドの肩にかけられた布は、修復および分析調査からアズライトを用いた青色であることが確認された。とはいえ、未だ曖昧な部分が多いため、今後、修復作業によって後年の加筆が除去されることで見えてくるオリジナルの図像に期待するところだが、「負翼童子」の脇にある円柱が壊されたものであるとするならば、18世紀後半から19世紀初頭にかけてヨーロッパで流行した廃墟を描いた作品との関係も検討する必要が出てくるだろう。作者と制作年代前出の伊藤氏の報告にあるとおり、本作品は最初の寸法から変更はなく、大きな作品を切り取った「部分」である可能性はほぼ考えられない。また、X線写真で確認された「聖母子像」の人物配置を見てもそれは妥当と思われる。それではこの「負翼童子」は何のために、どういう人物によって描かれたのであろうか。「聖母子像」と「負― 196 ―― 196 ―
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