鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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注⑴青木茂「高橋由一・明治十四年」『修復研究所報告』Vol. 2、1982年、p. 25 青木氏によれば、昭和53年(1978)の調査時と平成29年(2017)の段階では、画面の状態に大きな変化は見受けられないとのことである。翼童子」が描かれた時間的な開き、また、それらを描いた手が同じであるかどうかも現状では判別は不可能である。古いキャンバスを利用して別の人物によって描かれたとも考える。制作年代については、16世紀ないし17世紀初頭と考えられていたが(注7)、このたびの調査にあたりご協力をいただいた、イタリア美術と日伊の美術交流を専門とされる大阪芸術大学の石井元章教授から、19世紀前半の無名の画家の作であると考えるのが妥当ではないかとのご教示をいただいた。制作年代を19世紀前半とするならば、フェー伯爵の前任地であるブラジルの当時の状況を調査することも今後の課題の一つである。おわりに長年、所在の分からなかった《負翼童子図》が明らかになったことから行うこととなった本調査研究であるが、作業に着手しはじめるとまもなく修復の範囲を超えた加筆が複数にわたって行われていることが確認された。「一面破損アルニヨリ」と『履歴』が伝えているように、当時から画面はかなり傷んでいたと思われる。しかしながら、伊藤由美氏の修復報告ならびに宮田順一氏による試料片調査結果にあるように、本作品には当時から近年に至るまで複数回におよんで手が入っていることが確認されたことから、実際に当時どの程度の破損であったかは不明で、高橋由一が目にした状態の見極めは極めて困難と言わざるを得ない。そして、その加筆の多さゆえに、修復作業の途中である現段階では作者や制作年代の特定につながる手がかりは得られていない。これらの作業には今しばらくの時間を要するものと思われる。高橋由一が見たとされる状態はどのようなものであったか、どの段階を修復の最終地点と考えるかについては、今後も関係する研究者と十分な検討を重ねながら慎重に調査を継続し、将来的には展覧会等で公開することも視野に入れて、さらに研究を進めていきたい。⑵『高橋由一履歴』私家版、1892年11月、p. 13⑶青木茂編「洋画沿革展覧会出品目録」『明治洋画史料 記録篇』中央公論美術出版、1986年、⑷青木茂「油絵初学明治百十一年 高橋由一の遺作」『油絵初学』筑摩書房、1987年、pp. 344-pp. 255-263― 197 ―― 197 ―

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