鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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⑲■摩大隅における中世仏神像の基礎的考察─■島列島の仏神像調査と■隅の石造神将像試考─【調査の概要】研 究 者:熊本県立美術館 学芸課長  有 木 芳 隆はじめに薩摩国と大隅国(現鹿児島県、以下薩隅と表記する)は、「日本国」の南端境界域に位置している。そのため古代以来、畿内権力・文化の規範下にありつつも、大陸中国等との交流を保ち続けた希有な地域である。この地域的特性によって、仏神像についても九州中部以北とは異なった存在状況が想定されてきたが、当地域は廃寺となった寺院1,066ヵ寺という明治初年「廃仏毀釈」によって大量の仏教文化財を喪失した。そのため彫刻史的な調査研究も他地域に比べて寡少で(注1)、展覧会等で仏神像が公開されるようになったのも最近のことである(注2)。このような経緯のため薩隅の仏神像未調査地域は広大で、ことに散在する「島嶼部」の調査はほぼ未着手である。本調査研究では島嶼部の状況を明らかにするため、古代~近世を通じて船舶の重要な寄港地のひとつであった「甑島列島」の仏神像調査を初めて実施し、その成果を報告する。併せて、近年注目を集めている隼人塚石造四天王像(旧大隅国、現霧島市隼人町)と、隼人塚から西方一帯に点在する石造神将像の関係について考察する。隼人塚石仏は大隅国正八幡宮に関わるものとみなされているが、近年、薩摩国新田八幡神社(薩摩川内市)や蒲生八幡神社(姶良市蒲生町)周辺にあっても平安時代に遡る神将像が見いだされており、それらについて考察するものである。1 鹿児島県・甑島列島の仏神像調査概報甑島列島は鹿児島県西方の東シナ海海上に位置し、船舶が大陸あるいは南方から南九州等を目指す際、最初の経由地となる島嶼である。列島は上甑島、中甑島、下甑島の三島からなり、旧薩摩国の一部で、現在は薩摩川内市に属している〔図1〕。今回の調査では地元郷土誌などの情報をもとに(注3)、薩摩川内市教委と各地の文化財保護指導員のご協力を得た。これによって、現地の方々しか知り得ない仏神像の所在情報を確認し、調査に臨むことができたのである(注4)。わずか3日間の調査ではあったが14カ所の寺社堂宇等を調査し、合計44点の仏神像等の調書作成を行うことができた。― 202 ―― 202 ―

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