神王面を王舞面の同型と認識していたようで、新田宮の神王面は八幡大菩薩同体ともされている(注9)。上甑島の本面も八幡宮に奉安されてきたところから、神王面として制作されたものと考えられよう。本面は無銘だが南九州の在銘仮面と比較すると、宝治2年(1248)銘神王面(宮崎市生目神社、重文)や貞和5年(1349)銘王舞面(鹿児島県霧島市、安良神社)など鎌倉~南北朝期の作例ほどの実人的な肉取り造形は認められず、むしろ天文20年(1551)銘王舞面(宮崎都城市、稲荷神社)などの素朴な造形に近い表現がある。加えて、この八幡宮には寛文3年(1663)銘神王面(阿吽)も奉安されているが(注10)、寛文3年神王面は当該の神王面に比べて肉取りが薄く時代の下降を示す。以上の点からみてこの神王面は、室町時代後期(16世紀)あたりの作と想定される。【調査の成果と今後の課題】今回の調査では下甑島の大照寺・阿弥陀如来立像と上甑島の某八幡宮・神王面などを除いて、中世にさかのぼる仏神像は見いだせなかった。また、大陸請来の金銅仏等の存在も期待されたが発見し得なかった。このことは調査が短時日であったために見逃していることも理由として挙げられるが、元来、存在が希薄であったことも想定されるだろう。まず、中世にさかのぼる仏神像がほとんど見当たらなかった理由のひとつは、当地でも猛威を振るった「廃仏毀釈」の被害を被ったためとみられる。現在の甑島の寺院は近代になって再布教の成果として再建されたものであり、その本尊像もほとんどが制作にあたって当地とは直接の関わりがなく、外地から持ち込まれた江戸時代以降のものであった。鹿児島県において中世の仏神像を考察する場合、造立当初から当地に関わるものであるのか、廃仏毀釈以後に移座されてきたものかが大きな問題となる。この点で大照寺・阿弥陀如来立像を調査し得たことは大きな成果であった。現在、本県内で制作が鎌倉時代にさかのぼり、かつ廃仏の嵐をくぐり抜けて造立当初から伝存している作例は、光明禅寺・阿弥陀如来立像(指宿市)や、増田家・阿弥陀三尊像(薩摩川内市)などわずかな作例にとどまる(注11)。郷土誌の記述に従えば、本像は建長2年と大隅国国分寺ゆかりの像である旨の銘記を有するといい、造立当初から甑島にあったものではないようだが、薩隅ゆかりの作例としてその価値は大きく、今後の修理と精査研究が俟たれる。上甑島・某八幡宮の《神王面》も八幡信仰ゆかりの中世神王面として注目される。某八幡宮は海を隔てて新田八幡宮(薩摩川内市)にも近く、その影響下に制作された― 204 ―― 204 ―
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