【はじめに】とみられる。中世甑島列島にあっても八幡信仰の影響が及んでいた遺例として重要な作例である。つぎに大陸中国からの舶載陶磁器や仏像を見いだせなかった理由は、それらが元来ほとんど請来されてこなかったためではないか。宝亀9年(778)、遣唐使船が漂着(『続日本紀』)するなど古くから史料にも登場し、降って応仁元年(1467)には甑島代官藤原忠満が朝鮮に遣使している(『海東諸国記』)。また、慶長7年(1602)、マニラから宣教師モラレス一行が下甑島に来航し布教活動を行っている。史料に現れない来航船は他にも多かったと想像されるが、多量の新羅高麗仏などが伝存する壱岐、対馬に比して請来品の数少なさは、甑島列島の置かれた条件が影響しているものかもしれない。当地は耕地に恵まれない狭隘な土地柄で、そのため交易船の寄港地にはなり得ても、輸入品の受容地にはなりにくかったのではないだろうか。上記の見通しを確認するためにも、今回の調査を第一段階として、今後さらなる精査を期すことにしたい。2 薩隅の石造神将像試考─大隅国正八幡宮との関係において大隅国に位置する「隼人塚」(現霧島市隼人町)は、長方形の土壇(高約3m)に石造五重塔三基(中央塔高約6.5m)と石造四天王像(総高約2m)を配した独特な姿の遺構である。造築年代については、発掘調査や修復の過程で概ね平安時代後期と考えられている(注12)。また、隼人塚付近の正国寺跡からは康治元年(1142)銘石造如来像や菩薩像、隼人塚北方1.5kmの鹿児島神宮(旧大隅国正八幡宮)境内からは隼人塚四天王像に作風の似た大型の兜を被った神将像断片、隼人塚からも神将像断片が出土している。この地域には、ほぼ同時代とみられる四天王像(ないし二天像)が複数セット存在したらしい。隼人塚石造四天王像については、八尋和泉氏が彫刻史的研究に先鞭をつけ(注13)、さらに藤浪三千尋氏(注12)や井形進氏(注14)らによっても考察が重ねられてきた。近年では末吉武史氏が、隼人塚とは八幡神が受戒する場=戒壇であるという藤浪氏の最近の見解(注15)を踏まえ、包括的な見解を発表している(注16)。末吉氏は、四天王像のなかでも両手を交差させて剣を突き立てる広目天像や増長天像の図像に注目し、鑑真請来図像が反映されたとみられる東大寺戒壇院の銅造四天王像と接点があるのではないかとする。首肯すべき見解と思われるが、剣を突き立てる広目天像の図様に南宋石像の影響が指摘されている(注17)こととの整合性など、残されている課題も多い。― 205 ―― 205 ―
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