鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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その課題の一つが、隼人塚から西方へ新田八幡神社までの一帯に点在する石造神将像と隼人塚四天王像との関係である。具体的には東シナ海に流れる川内川河口の平野部(薩摩川内市)に薩摩国分寺跡・石造神将立像断片〔図4〕をはじめ、新田八幡神社虚空蔵峯、薩摩川内市歴史資料館、同市・安国寺境内などに神将像断片が複数存する。これらはいずれも平安時代後期から降っても鎌倉初期の制作とみられる(注14)。さらに近年の調査によって、川内川河口部だけでなく内陸部でも同時代の石造神将像が報告されている。本稿では、これら内陸部の神将像3例について検討する。(1)《石造神将立像(持鉾)、〔図5〕》(薩摩川内市樋脇町三島・個人蔵)本像は近年調査を実施したもので(注18)、川内川河口の新田八幡神社や国分寺跡から内陸へ、東方約8kmの樋脇町三島に祀られている(注19)。凝灰岩の一石製で、像高79.5cm。服制や着甲形式ともに通例の神将形像で、頭頂の宝珠と縦横の帯を彫出した大型の兜を被り、両手を重ねて長刀あるいは鉾らしき武器を執り、その下端を右足上に置いている。本像は、動きを抑えた重量感のある表現などから平安時代後期12世紀ころの作と考えられる。(2)《石造神将立像(持弓矢)、〔図6〕》(薩摩川内市樋脇町本庵)本像は⑴神将像の南方0.5kmほどの地点に祀られている。凝灰岩の一石製で、像高現状72.0cm。⑴像と同様に宝珠(欠失)と縦横の帯を彫り出した大型の兜を被り、右手に鏃と矢羽根の付いた矢、左手に弓を持つ。面貌の彫出がやや単調であることから、制作年代は⑴像とほぼ同時期からやや降るものか。本像のように弓矢を持つ神将像は、宋代以降の金光明懺法で勧請される護法諸天像中の四天王像・広目天像と同図像であることが知られている(注20)。宋本やそれをもとにわが国で制作された画像中の図像が当地に見いだされるのは、請来図像の影響を受けた可能性も考えられるだろう。(3)《石造毘沙門天立像、〔図7〕》(姶良市蒲生町久馬神社境内)本像は、かつて井形進氏が紹介した作例である(注21)。凝灰岩の一石製、像高147.2㌢。本像も服制着甲形式ともに通例の神将形像で、縦横の帯を彫出した大型の兜を被り、右手に宝棒、左手を屈臂して宝塔を捧げ持つ。作風から判断して、井形氏も指摘しているように平安時代後期の作例とみられる。隣接して同時代同作風の不動明王立像も残されている。【各神将像の作風について】これら3像を比較してみると⑶毘沙門天立像が一回り大きいが、縦横の帯を彫出し― 206 ―― 206 ―

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