た大型の兜や神将像の通例に従った服制、着甲形式などは共通する。また眉庇を深くした頬に張りのある面貌、への字に曲げた太い眉、突き出た両眼、下半身短躯で動きを抑えた重量感のある体型などの作風もよく似通っている。そしてこの作風は、隼人塚四天王像〔図8〕を彷彿とさせるものである。それでは、これら神将像の間に共通する造像背景や仏師集団を想定しうるのだろうか。【石造神将像の造像背景】はじめに3像が置かれている場所について考察してみたい。⑶毘沙門天立像が存する久馬神社の南東1.5kmには、蒲生八幡神社がある。蒲生八幡神社はかつて「正八幡若宮」と称され、保安4年(1123)藤原舜清によって勧請されたという大隅国正八幡宮の重要な四所別宮の一つ。同社が鎮座している中世蒲生院は11世紀頃から正八幡宮領であり、後世の史料ではあるが舜清は後述する正八幡宮執印行賢の娘婿であるとされている(注22)。つぎに、⑴⑵神将立像ともに新田八幡神社や国分寺跡から内陸へ東方約8kmあたりに祀られているが、かつては現在地からさらに南東内陸部へ約9kmの旧入来町に安置されていて、江戸時代に現在地に移座されたらしい(注23)。旧在所は蒲生町の⑶像からみると西方へ約10km地点にあたり、これら3神将像は相互に比較的近い距離に存在したようである。作風の相似から推しても、3像の間には本来何らか繋がりのあった可能性が考えられるだろう。さらには位置的に近く、3像と同時代に勧請されていた蒲生八幡神社との何らかの関係も想像されるところである。11後半~12世紀前半に大隅国正八幡宮の位地を高めたことで知られる行賢は、寛治2年(1088)に正八幡宮最高位である執印に補任され、天養元年(1144)に没する数年前まで執印としての活動が確認されるという(注24)。行賢在任中には正八幡宮領が拡大され、宮務を司る宮家機構が確立した時期と考えられている(注25)。天承2年(1132)には「八幡」名号が現れた「石体」出現事件が発生し、正八幡宮の位地をさらに高めた。加えて、大隅国国分寺跡に残る五重石塔と正国寺跡出土の石仏二躯に康治元年(1142)銘などがあることから、12世紀半ば頃、行賢による仏事興行が盛んに行われていたと想定されている(注24)。そうであるならば、隼人塚造営もその一環であったとしても不自然ではない(注26)。ここで、正八幡宮の四所別宮である蒲生八幡神社と勝栗神社(もと正若宮八幡社)に伝来する奉納鏡の存在に注目したい。久保智康氏らの調査によれば12世紀前半の両神社の奉納鏡には、京都あたりではほぼみられない踏み返し法による同型鏡が多数存するという。久保氏は、それらは在地で製作された可能性が高く、在地鋳造工房が存― 207 ―― 207 ―
元のページ ../index.html#219