鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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注⑴八尋和泉「鹿児島県の仏像」(『鹿児島県指定文化財報告書四一集』鹿児島県教育委員会、1995年)、『九州における仏教美術の遍在と偏在─中央様式と地方様式の関係を中心に─』(平成七・八・九年度科学研究費補助金調査報告書、研究代表者菊竹淳一、1998年)、拙稿「中世鹿児島の仏像」(『かごしまの仏たち~守り伝える祈りの造形~図録』鹿児島県歴史資料センター黎明館編、2017年)など。在した可能性を指摘している(注27)。同氏はさらに、両神社の鏡奉納者が共通して鏡を発注した在地鋳造工房が存在するなら、それは両社の上に立つ大隅国正八幡宮とも関係を持ち、行賢が工房に関与していても不自然ではないと指摘する。前述のように蒲生八幡神社を勧請した舜清は執印行賢の娘婿と伝えられ、重要な別宮の勧請や鏡奉納に行賢が直接間接に関わった可能性は十分考えられるだろう。隼人塚石造四天王像や樋脇町及び蒲生町石造毘沙門天立像の作風の相似を考えるとき、12世紀前半の正八幡宮周辺に在地鋳造工房が存在していたならば、これらの石造仏を制作した正八幡宮の「(石)仏師工房」が存在していた可能性も十分に想定できるのではないだろうか。石造神将像は隼人塚から西方に向って、新田八幡神社や薩摩国分寺までの一帯に確認されており、隣国の肥後球磨郡や日向国では今のところ発見されないことからも、正八幡宮や別宮のために石仏造像を請け負っていた在地仏師工房が存在した可能性を指摘しておきたい。彼らは神将形像の図像に通暁しており、両手を交差して剣を突く広目天像や弓矢を持つ神将像などの存在からは、請来図像に接していた可能性が考えられるであろう。このような推測が妥当であるなら、樋脇町や蒲生町の神将像の制作時期は、それぞれ若干のばらつきがあろうが、蒲生社が勧請された保安4年(1123)以降、行賢の仏事興行が盛んだったとみられる12世紀半ば頃の可能性が高い。なお、薩摩国分寺跡や薩摩川内市安国寺境内の石造神将立像〔図4〕は、樋脇町や蒲生町神将立像の下半身短躯で身幅の広い造形に比べると、やや細身で引き締まった造形であり、薩隅の石造神将像作風も一通りではないこともわかる。また本稿では論及できなかったが、末吉氏や井形氏が論じられている佐賀・四天社四天王像と隼人塚の相似の問題や(注14、16)、新たな石造神将像の探索なども併せて今後の課題としたい。⑵鹿児島県立歴史資料センター黎明館「祈りのかたち~中世南九州の仏と神展」2006年、同「黎明館企画特別展 かごしまの仏たち~守り伝える祈りの造形~」2017年など。⑶自治体史としては下甑村役場編『下甑村郷土誌』1977年、上甑村郷土誌編集委員会編『上甑島郷土誌』1980年、鹿島村郷土誌編纂委員会編『鹿島村郷土誌』1982年(2000年改訂版刊)、里― 208 ―― 208 ―

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