鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
221/643

⑷ 調査員は有木の他、中嶋芳樹氏(薩摩川内市教育委員会)、末吉武史氏(福岡市博物館)、宮田大樹氏(福岡市美術館)、萬納恵介氏(熊本県立美術館)。また甑島各地域の文化財保護指導員の方々が同行し、所蔵者への交渉の労を執ってくださった。⑸ 前掲注⑶『下甑村郷土誌』552P⑹ 「薩摩国甑島郡高竹山大性寺条」『三国名勝図絵巻之三十』(天保14年(1843)刊、青潮社1982⑺ ほかの法量(cm)は頭頂─顎18.5 髪際─顎11.9 面張10.5 面奥14.1 耳張13.5 胸奥(右)15.6 ⑻ 山崎摂「八代の歴史と文化Ⅳ 仮面の系譜展図録─総説」(『仮面の系譜』展図録、八代市立博⑼ 「宝治元年十月二十五日付関東下知状案」(『鹿児島県史料旧記雑録拾遺家わけ十 新田神社文⑽ 銘文は(阿形)「寛文三年卯六月廿七日/上甑里村之任⑾ 前掲注⑴拙稿「中世鹿児島の仏像」⑿ 隼人町教育委員会『隼人塚─山跡遺跡発掘調査概報』1998年、同『国指定史跡隼人塚修復工事報告書(石像編)』2003年、藤浪三千尋「史跡隼人塚修復工事を終えて」(『鹿児島考古』34号、2000年)など。⒀ 八尋和泉「隼人塚石造四天王像考」(『鹿児島考古』34号、2000年)。⒁ 井形進「九州西側の石造古仏」(『九州歴史資料館研究論集』38、2013年)。⒂ 藤浪三千尋「正八幡宮放生会(浜下り)と隼人塚との関係の考察」(『南九州の石塔』20号、⒃ 末吉武史「石造四天王像の図像について」(前掲注⑴『かごしまの仏たち~守り伝える祈りの⒄ 井形進『薩摩塔の時空』(花乱社、2012年)など⒅ 「かごしまの仏たち展」の2017年調査による。前掲注⑴拙稿「解説 5石造神将像」。⒆ 樋脇町文化財編集委員会『樋脇町の文化財』1994年、による。⑵神将像についても同様。⒇ 谷口耕生「清涼寺釈迦如来立像旧厨子絵考─金光明懺法諸天像の一遺例」(『仏教美術論集第5 前掲注⒁井形進氏論文。また、蒲生郷土誌編纂委員会『蒲生郷土誌』1991年に掲載。 「藤原姓蒲生氏系図」(前掲、蒲生郷土誌編纂委員会『蒲生郷土誌』所収)。 前掲注⒆書による。 栗林文夫「古代末における大隅国の宗教的空間─正八幡宮・台明寺を中心にして─」(『季刊  日隈正守「諸国一宮制の成立と展開─大隅国正八幡宮の場合」(九州大学国史学研究室編『古 藤浪三千尋『隼人塚の歴史』私家版、1994年、及び前掲注栗林氏書。 久保智康「中世南九州における神社への銅鏡奉納」(黎明館『祈りのかたち~中世南九州の仏※ 甑島調査は中嶋芳樹氏をはじめ薩摩川内市教育委員会、甑島各地域の文化財保護指導員の方々、村郷土誌編纂委員会編『里村郷土誌』1985年等。年復刊)腹奥18.3 臂張29.8 袖張28.8 裾張23.2物館未来の森ミュージアム、1994年)。書』鹿児島県、2005年)。2017年)。造形~図録』)。巻』竹林舎、2014年)、井手誠之輔氏の御示教による。古代文化第66巻第2号 特輯 古代大隅国の歴史的展開』2014年)。代中世史論集』吉川弘文館、1990年)。と神展図録』2006年)。各所蔵者のご理解とご協力を得て実施が可能となった。記して感謝の意を表します。― 209 ―― 209 ―ママ/塩田與右衛門/信五作之」

元のページ  ../index.html#221

このブックを見る