鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
225/643

⑳ルネサンスのイタリアにおける「キリスト哀悼」彫刻群像表現の研究序研 究 者:武蔵野美術大学 非常勤講師  藤 﨑 悠 子大理石やブロンズといった“高貴な”素材が紡ぐルネサンス彫刻史の影で、彩色木彫や彩色テラコッタ(素焼き粘土)を用いた再現的な人物表象は、社会学的・文化人類学的アプローチにおける格好の考察対象となってきた。ニッコロ・デッラルカによる著名な群像〔図8〕に代表される「死せるキリストへの哀悼」の彫刻表現は、こうした彩色等身像を用いた「彫像の劇場」における人気の主題として、1470年代からの半世紀をピークにイタリア半島に150点以上の作例を残した。同主題の彫刻表象は、フランスをその拠点として汎ヨーロッパ的に普及したが、イタリアの作品群はその多様な表現形式により独自の発展史をもつ。本課題は、今日「キリスト哀悼」の名のもとに集められるイタリアの現存作例を網羅的に収集・比較し、その展開をあとづけるものである。本論では、形式上・地理上のふたつの大きな区分としてイタリア北部のポー川流域のグループとトスカーナ州のグループを概観し、その設置手法や表現様式の相違を方向づけた制作背景を考察する。1.「死せるキリストへの哀悼」彫刻表現成立の背景1-1.図像の定義十字架から降ろされてすでに息を引き取って横たわるキリストの体を前に、哀しみに打ちひしがれる聖母と彼女の痛みを共有する立会人たち。受難伝の感情的クライマックスを担うこの「死せるキリストへの哀悼」の場面は、外伝である『ニコデモ福音書』には記述があるものの、本来福音書には描出されていない物語である。Milletらは、ギリシャ語で「トレノス Threnos」と呼ばれるこの「哀悼」図像が9世紀のビザンチンの細密画の領域にその起源をもち、「キリストの墓への埋葬」の変化形として徐々に独立した図像として成立した経緯を例証した(注1)。すなわち、埋葬人のアリマタヤのヨセフとニコデモの2人がキリストを墓へと運搬する場面を描いた挿図のヴァリエーションの中で、彼らがふと歩みを止めキリストの死に悼みを表明するという感情的描写が現れたことに端を発し、そこに本来は立会っていないはずの聖母や嘆く女たちが加わりながら、「哀悼」図像へと至ったというものである〔図1〕。端的にいえば「キリスト哀悼」は、「十字架降下」から「キリストの埋葬」へのシーケンスの任意の瞬間を切り取ったもので、「降下」と「埋葬」があくまでキリストを主体― 213 ―― 213 ―

元のページ  ../index.html#225

このブックを見る