プス以北の彫刻家工房によって石灰岩や石膏を素材に手掛けられた〔図3〕。一方イタリア出身の彫刻家に関して言えば、単独母子像の制作はシエナのヴェッキエッタ〔図4〕やフィレンツェのデッロ・デッリ、そしてミケランジェロといったわずかな事例に限られる(注2)。むしろこの図像は、「キリスト哀悼」彫刻表現の中に取り込まれていることで多くのヴァリアントを生んだといえよう。実際フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州に残る作例は、「ピエタ」の単独像の周りに登場人物たちが配されることで「哀悼」群像として成立している〔図6〕。また後述するように、トスカーナ作例の大部分も「ピエタ」を中心に群像を構成し、ロンバルディア州では「ピエタ」の変化形として、膝にキリストを受け止めたまま「失神する聖母」の表象が普及した。一方で「ピエタ」だけでは説明し得ない「哀悼」の演劇的な性格は、先行する「十字架降下」の群像作品に求められよう。「十字架降下」の場面を再現した大規模な木彫群像〔図5〕は、イタリアでは13世紀初頭から制作され、マルケ州からトスカーナ州にかけての中部を中心に現在20組ほどが確認される(注3)。聖堂内へのジオラマ風群像の設置、あるいは聖金曜日の聖史劇や宗教行列における掲示といった役割は、とくに北イタリアにおける木彫の「哀悼」作例を先駆けるものと言える。典礼におけるキリスト彫像の演劇的利用という点では14世紀から可動式関節をもつ一連の磔刑像にとって代わられ、地理的にも「哀悼」の分布地とは被らないため、その影響は間接的なものに留まるかもしれない。だが、聖週間の典礼において“活人画”を演じることを想定された彫像たちの演劇的身振りや悲痛に歪む表情は「哀悼」の中で回復されることになる。2.イタリアにおける「哀悼」群像表現の発展現存する「キリスト哀悼」の多くは、広い展示空間を要するその作品形態、大人数による群像構成、素材の脆弱性(木、テラコッタ)といった保存上の難しさから、過去に解体や散逸を経ている。そのうち大部分が残るもの、一部のみ残るが当初群像を成していた可能性のあるもの、あるいは現存しないが史料によって制作が確実視される作例を統計すると、次のような分布を示す。ロンバルディア州に30組(木20、テラコッタ10)、ピエモンテ州に22組(石1、木15、テラコッタ5、不明1)、エミリア=ロマーニャ州に22組(木3、テラコッタ19)、ヴェネト州に15組(石4、木3、テラコッタ8)、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州に6組(化粧漆喰1、木5)、トスカーナ州に42組(木2、テラコッタ40)、その他マルケ、アブルッツォ、サルデーニャな― 215 ―― 215 ―
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