どに9組、計145組が確認された(注4)。ここから、「哀悼」作例の約95パーセントが北緯43度16分(コルトーナ周辺)以北に分布していることが分かる。これらの表現形式の基本的な方向性は大きくふたつに分類することができ、ひとつはイタリア北部のピエモンテ、ロンバルディア、ヴェネト、エミリア=ロマーニャなどポー川流域の都市に分布するテラコッタと木彫による作品群で、もうひとつはトスカーナのテラコッタによる高浮彫を中心とする作品群である。以下にこのふたつのグループを概観する。2-1.ポー川流域の作例ここに該当するピエモンテ、ロンバルディア、ヴェネト、エミリア=ロマーニャの4州には、石彫や木彫による最初期の「哀悼」作例が残されている。確認される最初の彫刻表現で14世紀半ばに置かれるカプリーノ・ヴェロネーゼ作品〔図7〕を筆頭に、それらの形式は前景に横臥するキリストの後ろに6人ないし7人の哀悼者が並ぶという構成で共通している。この人物構成は、その後150年以上にわたり、ポー川流域における基本的な「哀悼」の枠組みとなっていく。すなわちキリストは手前の石棺の上/地面に横たえられ、聖母を中心に、福音書記者聖ヨハネ、マグダラのマリア、クレオファのマリア、サロメのマリア、そして埋葬人のアリマタヤのヨセフとニコデモが加わった8体から成る構成である。最後の2体はしばしばキリストの頭部と足下に配されて埋葬のために布を持ち上げるポーズをとる。つまり北イタリアの初期作例はアルプス以北の「埋葬」の彫刻表現と強い関連をもち、それは史料中の呼称「埋葬Sepolcro」に示唆される通りである。この従来の図式にのっとりながらも、演劇性をもって表現の印象を一新し、「哀悼」主題と彩色テラコッタとの親和性を世に知らしめた功績は、ほとんどニッコロ・デッラルカひとりの手に帰される(注5)〔図8〕。デッラルカによって提案された、地面の上に直接置かれたキリストを半円形に取り囲む激情的で躍動的な人物たちによって構成される場面は、7組の「哀悼」を制作した多産なグイド・マッツォーニの貢献により、エミリア地方の表現伝統として確立された〔図9〕。マッツォーニは時にライフマスクを用いて注文主の似姿を群像の中に織り込み、細部の再現的描写により迫真性を高めた。エミリア地方に限って言えば、その後16世紀からはヴィンチェンツォ・オノフリ、アルフォンソ・ロンバルディ、そしてアントニオ・ベガレッリによる盛期ルネサンス的調和の中で生々しい写実性は和らげられていくものの、ロンバルディア州、ヴェネト州、そしてナポリにまで至るマッツォーニ自身の移動に伴い、エミリア― 216 ―― 216 ―
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