鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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の伝統は各地に伝播することになった。とりわけロンバルディア州でのマッツォーニの活動は、1480年代から複数の「哀悼」を手掛けたアゴスティーノ・デ・フォンドゥリス〔図10〕に多大な影響を与えた。さらにフォンドゥリス芸術における直接的着想源となったのが、マンテーニャである。彼の1470-1475年頃の《キリストの埋葬》の版画に現れた「失神する聖母」は、しばしば「ピエタ」のように膝にキリストを乗せる形式をとりながら、ロンバルディア州の「哀悼」に特徴的なモチーフとなっていく。デ・フォンドゥリスと追随者によってテラコッタの「哀悼」が普及した一方、木彫制作の伝統も根強いロンバルディアには、クレメンテ・ザマラ、ジョヴァンニ・アンジェロ・デル・マイーノ〔図11〕、アンドレア・ダ・ミラノの工房を中心に木彫の「哀悼」が残された。これら木彫作品の利点は彫像を個々に持ち出せる点にあり、とくにキリストの横臥像は聖金曜日の宗教行列での使用による損傷のために失われたり、置き換えられたケースが多々ある。デル・マイーノやアンドレア・ダ・ミラノによる座って「失神する聖母」は、このようなキリストの横臥像の単独活用と、聖母の膝上に置いてピエタ形式で設置するという彫像の二通りの使い方を可能にしていたと考えられる。デ・フォンドゥリスによるテラコッタ作品の影響はロンバルディアの彫刻家の手を介してピエモンテにまで及びはしたが、ドメニコ・メルツァゴーラに代表される木彫の伝統が根強く支配した〔図12〕。またピエモンテはロンバルディアと共に、ヴァラッロをはじめとするサクロ・モンテ建設事業で知られる地であり、ジオラマ形式の「哀悼」群像はその造形的源泉となったと考えうる(注6)。ノーヴィ・リグーレの《哀悼》は16世紀末に《カルヴァリオの丘》がその上に増設され〔図13〕、都市の聖堂内に築かれた“小さなサクロ・モンテ”の中に編入された稀有な事例である。2-2.トスカーナの作例トスカーナにおける「哀悼」群像の最初期の現存作例はシエナに残されている。アルベルト・ディ・ベットによる木彫作例〔図14〕では、聖母の膝の上でキリストの身体がまっすぐに伸び、その頭と脚を福音書記者聖ヨハネとマグダラのマリアが支えている。これは彫刻家が目にしたであろうミラノ大聖堂のハンス・フォン・フェルナックによる14世紀末の《哀悼》を踏襲した“ピエタ形式”と呼ぶべき構図である。同都市でその後15世紀最後の四半世紀にフランチェスコ・ディ・ジョルジョおよび弟子ジャコモ・コッツァレッリによって手掛けられた数組の彩色テラコッタの《哀悼》〔図― 217 ―― 217 ―

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