のが、聖週間における宗教行列の運営のほか、病院運営や身寄りのない貧者の支援といった慈善事業、そして死刑囚に対する悔悛の支援と埋葬に関わるものであった。この鞭打ち兄弟会のポー川流域における勢力分布は、そのまま「キリスト哀悼」群像の分布地域と重なり、その活動の精神性を体現したとみなすことができる。ロンバルディアやピエモンテに普及した木彫作品は、聖金曜日の宗教行列においてキリスト横臥像や哀悼人の彫像を掲示する兄弟会の用途に適うものであった。またエミリア地方の「哀悼」に顕著な生々しい写実性と演劇性は、聖史劇の記録としての側面からも説明されよう。実際、アリマタヤのヨセフとニコデモは出資者の男性肖像を挿入する場となり、ライフ・マスクを用いて埋葬人を同時代人物の“エクス・ヴォート”へと変容させるマッツォーニ的作品への根強い需要はこの要請に適うものであった。たとえばエミリア地方の形式にのっとり16世紀初頭に作られたウルビーノ大聖堂の《哀悼》は、埋葬人にあたる男性像がさらに2体加えられた珍しい10人構成となっている。この異例の追加は、群像を設置した兄弟会のメンバーの肖像をより多く挿入するための解決策であったと考えられる。一方「埋葬」の場面選択の必然性は、兄弟会の重要な活動たる、死刑囚の悔悛と埋葬に関わっている。死刑囚を慰め、励ますことを目的にモデナのブォナ・モルテ(良き死の)兄弟会によってマッツォーニに依頼された作品〔図9〕に代表されるように、群像は死刑囚に埋葬の具体的なヴィジョンを与えると同時に、兄弟会メンバーに埋葬人としての自身の姿を投影することを可能にさせていた。ポー川流域の「哀悼」における痛々しいまでの写実的描写の追求と、鑑賞者との空間の共有は、鞭打ちを通じてキリストの肉体的苦痛の追体験を重要視していた兄弟たちの、キリストの受難に対する信仰を高揚させ、男女の哀悼人たちの中に各々が共感を見出す目的に適っていたといえる。対してトスカーナでは、シエナの作例、フィレンツェ周辺の作例ともに「哀悼」を祭壇彫刻として壁面に設置する形式が主流であったが、これはひとつには、エミリアの彫刻家が用いたような紐づくり(注7)ではなく、トスカーナの彫刻家が背面に開口部を残す高浮彫の制作手順を慣習的に用いていたという技法的な要因があげられる。とはいえ最初の証言であるアルベルト・ディ・ベットの木彫〔図14〕からすでに祭壇の上に置かれており、横長の構図をとる4体の“ピエタ形式”はこの設置形式に適したものであったと言える。16世紀のロッビア工房の介入以降は壁龕に入れることを前提に、安定した対照的構図として引き続き「ピエタ」が中心に据えられ、「哀悼」のもつ物語性よりもイコン性に重点がおかれている。設置先としては同工房の活動拠― 219 ―― 219 ―
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