このように、近代の女性画家のなかにも、しばしば旅行に出かけた者たちがおり、各地で行った写生をもとにした作品も制作された。奥原晴湖は明治11年に訪れた奈良・月ヶ瀬を題材に、《月瀬梅渓図巻》(明治29年、古河歴史博物館蔵)を描き、野口小蘋は大正4年(1915)の《悠紀地方風俗歌屛風》制作のため、同年7月に写生旅行へと出かけている(注7)。本稿ではこうした女性画家の旅行と制作の関係について、武村耕靄という日本画家を例にとり、詳しく見てみたい。武村耕靄(1852-1915)は東京女子師範学校や共立女子職業学校、私立女子美術学校などにおいて教鞭を執った美術教育者であり、また日本美術協会や日本画会、日本南宗画会等で活躍した明治期の日本画家である。耕靄に関する研究はいまだその緒についたばかりであり、確認されている現存作品も決して多くはない。その一方で、共立女子大学図書館には耕靄作品のほか、日記や写生帖などが数多く収蔵されており、その活動のようすを詳細に知ることが出来る。本稿ではこれらの日記や写生帖をもとに、耕靄の旅行歴を整理し、その目的や制作との関係などを探っていく。なお、耕靄の画業についてはすでに、本助成の成果の一部として別稿にまとめているので、そちらを参照されたい(注8)。1.武村耕靄の旅行歴まず、耕靄の旅行歴を整理しておく。ここでは共立女子大学図書館が所蔵する、耕靄の日記および写生帖を資料として取り上げた。日記については別稿ですでにまとめているため(注9)、詳しい説明はそちらに譲ることとし、ここでは写生帖について記しておく。なお、本稿中に出てくる日記番号はすべて、先の別稿に依っている。同館が所蔵する耕靄の写生帖41冊の内訳は、表1に示したとおり。明治20年代の年記を持つものはわずかに3冊のみで、ほとんどが明治30年代以降、すなわち女子高等師範学校退官後に使用されたものである。描かれているのは各地の風景が圧倒的に多く、草花や虫魚、鳥、動物のほか、古画などの縮図も見受けられる。また、写生の大半は鉛筆で行われており、筆で描かれたものはごくわずかしかない。さらに、多くの図には彩色が施されているが、日記の記述から、現地では鉛筆による写生のみを行い、宿泊先などへ帰ったのちに彩色をしていたことが知られる(注10)。さて、これらの日記と写生帖より知ることの出来る耕靄の旅行歴をまとめたものが、表2である。「日記内容」の欄には日記よりわかる耕靄の足取りを、「写生帖内容」の欄には、年記のある図より、描いた場所や描かれた対象に関する記載を抜き出し、それぞれ示した。日記の記述が抜けていて詳しい行程や期間のわからない旅行や、写― 225 ―― 225 ―
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