鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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生帖からしか情報の得られなかった旅行も多々あり、いまだ不完全な部分が多いが(注11)、ここからは、耕靄がかなりの頻度で旅行に出かけていたことが読み取れるだろう。表2のうち、もっとも早い明治20年5月の埼玉県さいたま市岩槻区馬込に位置する天台宗寺院・満蔵寺行きは、耕靄の母方の祖父である松永里教(秀泰)の墓参が目的であった(『日記』11)。このときの同行者の有無は、日記に記述がないため不明である。つづく8月4日からの箱根旅行は、「牧野脇屋佐藤の三女史」(『日記』12)同道の写生旅行で、同行の女性はそれぞれおそらく、牧野英子、脇屋貞子、佐藤銑子であったと推測される(注12)。翌明治21年にも耕靄は9月に箱根を訪れているが、このときは毛利公爵夫人の招きに応じる形で、単身箱根へと向かった(『日記』11)。毛利夫人とは9月3日、堂ヶ島にあった銀行家・平松甚四郎の別荘へと向かう途中の滝の屋で会い、ともに平松別荘に滞在している(『日記』11)。また、箱根入りした9月2日には、塔ノ峰の麓にあった「明ぼの亭」を訪れ、老翁に阿弥陀寺の石窟の話を聞いており、その日の日記には次のような記述が残されている(注13)。又曰塔の峯の石窟其観実に巍々として雅趣あり文墨を愛る人の見給ふべきものなりと自ら往て見んと思へども独行も婦女の身に似あわしからずと思とゞまり其亭を立出少しはなれたる所まで来りしに老夫の田畝を耕ものあり心ばせもまめやかならん面なりければ石窟の案内を乞ふ老農よくうけがひければ召つれて阿弥陀寺へ参るそれより三丁程奥へ登り岩根をよじて石窟に至るここからは、女性ひとりで山道を行くことに若干のためらいを感じつつも、たまたま居合わせた畑仕事をする老人に案内を頼み、見に行ったことがわかる。また、日記の明治29年8月16日条、日光の戦場ヶ原より湯本への山路を行く折の記述には、次のようにある。山路にかゝりたるとき見おろす山々面白く見とるゝはつみに木の根にや足をかけけんかたへとどうとたをれたり見る人もなけれは顔赤らむることもなけれどひさとあしをうちすこしすりふけたる処あれとさしたることにもあらねはうちゑみながら塵うちはらひもとの山路を登りつゝ十時ばかりに湯本へかへれり― 226 ―― 226 ―

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