鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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ともあり、転地療養を幾度か試みている。主な滞在先は鎌倉で、療養中とはいえ、耕靄は気分がすぐれれば外出し、風景や草花などを写生している。また、旅行先での写生は、単に画技を磨いたり画囊を肥やしたりする目的だけでなく、耕靄にとって一種の慰めにもなっていたようである。耕靄の日記明治26年2月18日条には、次のような記述が認められる。アヽ画の道ほと世に広くたのしきものはなし行処として恵ものあり心を楽しまするものあり唯独り絶景美色の物のみならず朽たる木も苔むしたるものも美も不美も皆画としてあらはるれは美を顕はす世界の現象画ならざるなし至る処黄金の砂白銀の水とりて尽きず汲みてかぎりなしアヽ此楽みは財を費さず人に羨れず身を易し人をも楽します誠に画の徳は述へて尽ずこれは鎌倉での転地療養中に、長谷寺を訪れ写生をしていた際の記述の一部である。ここからは、耕靄にとって絵を描くということが、精神的な慰めにもなっていたようすが窺えよう。3.個人蔵《菊花図》について耕靄の日記を読みながら旅行のようすを追っていると、各地で出会った人々のため、耕靄がたびたび筆を執っていることに気づく。それは団扇や扇子といったその場でさっと描けるものから、帰京後に改めて制作し、後日送り届けた作品などさまざまである。明治30年8月25日、日光に滞在していた耕靄のこの日の日記には、次のようにある。此夜隣室に宿れる人は上都賀郡の農家との事夫妻にて来れるか画をかき居たるをかいま見て入り来り前夜の松戸の人の如くに絵画好むよしニて種々物語りなとし扇子とり出しせちに乞はるれは菊の墨画をかきてあたへつれハ深く喜ひて帰れりまた、明治39年に修善寺の宿屋五柳館に滞在していた際の日記には、次のように記されている。2月1日条から引く。朝より雨につき外出見あわせ真田家渋谷氏及宅への手紙かく三十日投宿の河原中将画を見にまゐられたきよし主婦をして申込まる同中将ハリウマチスにて階段昇― 229 ―― 229 ―

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