鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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降自由ならずときく此方よりまゐる事申写生持参同中将に面会す主婦より依頼の五柳館雪景を夜分揮毫夜風雨二階の雨戸はづるゝ様になるこれらの例からも窺われるように、耕靄は旅行先でしばしば絵を見たいと乞われたり、揮毫を依頼されたりしており、耕靄自身も気軽にそれらに応じていた。こうした旅先での出会いから生まれたと思しき作品のひとつが、個人蔵の《菊花図》〔図1〕である。本作は絹本着色の軸装で、寸法は縦116.2×横41.3cm。画面上方を余白とし、左半分手前に大きく八重咲きの菊を配し、右方奥にはひとまわり小さく、一重咲きの菊が表される。モチーフを画面手前と奥とに分けて配置することで、奥行きのある空間を表現する点や、手前の菊には彩色を濃く、奥の菊には薄く施し遠近感を表す点などは、お茶の水女子大学が所蔵する耕靄の《百合図》(明治42年頃)に通じる特徴といえる。落款は画面左下に「耕靄女史」と記され、その下に「耕靄」の朱文竹形印が捺される〔図2〕。落款の書風は宮城県美術館が所蔵する《秋林読書》や《春景山水》のものに近く、「耕」の字の旁を偏よりもひとまわり小さく書くという、明治30年代後半以降の耕靄作品に記された落款と同様の特徴を示す(注16)。また、本作に捺された印章は、共立女子大学図書館が所蔵する耕靄の印章28顆のうちのひとつと同一のものであろう〔図3〕。本印は縦2.4×横2.3cm。「蔵六作/于陶冶/雕蟲窟」との側款が刻まれている。同館所蔵の武村耕靄資料のなかにはさらに、本印の印影とともに、「結金石縁/竹印一枚文曰耕靄/戊申春日 蔵六裕 (蔵六刻:朱文円印)」との記載がある紙片が含まれており〔図4〕、本印が明治41年に五世浜村蔵六(1866-1909)により刻されたものであることが知られる。以上のことより、個人蔵の《菊花図》は耕靄の筆になるものと考えて差し支えないだろう。また、制作年についても、印章の刻された年から、明治41年以降と推測される。本作は明治期、岡山県・児島で遍路宿を営んでいた家に伝わる作品で、耕靄が同地を訪れた際に知遇を得、揮毫を依頼されたか、あるいはなんらかの御礼として描かれた可能性が考えられる。残念ながら、耕靄が児島の地を訪れた記録は、日記にも写生帖にも見出すことは出来ない。その一方で、耕靄は明治41年7月30日より岡山旅行に出かけており、あるいはこのとき、児島を訪れたとも考えられる。このときの旅行について記された『日記』41には、8月3日から9月17日までの記述がなく、その間の耕靄の足取りを追うことは出来ないものの、8月1日には豪渓を訪れ、2日には総社― 230 ―― 230 ―

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