注(1)草薙奈津子「語られない者から語る者へ─近代女性画家のあゆみ」『日本の美術 女性画家の全貌。─疾走する美のアスリートたち』、美術年鑑社、平成15年12月、14頁参照。また、山崎明子氏も、「家庭外での絵画制作の機会が少なかったことから、風景画や歴史画、スケールの大きい作品等に取り組むことができなかった」と指摘されている(山崎明子「女性が絵を学ぶことの社会的意味─赤艸社女子絵画研究所の事例から─」『科学研究費研究成果報告書 近代日本の女性美術家と女性像に関する研究 平成15-18年度 基盤研究(B)15320018』、研究代表者池田忍、平成19年3月、122頁参照)。市の宝福寺などへ、耕靄は赴いている。また、「四十一年/八月十四日夜九時/月光を以て写す/旧十八日の月」との記載がある図や、豪渓の写生図が多数含まれることから、このとき携帯していたと考えられる『写生帖』25には、「五剣山」や「与治山」、「虎丸城址」など、香川県の地名が記された図が散見され、あるいはこのとき、香川まで足を伸ばしていた可能性も考えられる。耕靄はこの折に、児島の遍路宿に立ち寄ったのではないだろうか。さらなる検討を要する問題ではあるものの、本作はそのときの出合いから生まれた作品であると推測される。おわりに本稿では女性画家の旅行と制作について、明治期に活躍した武村耕靄を例にとり、その概略を紹介した。耕靄の例からも窺えるように、旅行先での写生をもとにした制作は、必ずしも風景を描いたものだけではなく、《晃山草花》(所在不明)のような花卉図もあった。さらに、耕靄以外の女性画家の例となるが、人物画においても、たとえば大正期に活躍した栗原玉葉が大正6年(1917)に描いた《身のさち 心のさち》(所在不明)のように(注17)、旅行先での写生が制作に活かされたケースは多くある。また、耕靄が旅行先でしばしば絵を見たいと乞われたり、揮毫を依頼されたりしていたことからは、女性画家の作品に対する関心や需要が、全国的にあったようすが窺える。女性画家の活動を支えた需要の存在を考える上でも、旅行と制作との関係は、さらなる検討がなされるべき問題であるといえよう。本稿で取り上げることが出来たのはほんの一例にすぎないが、今後もより多くの事例を集め、多角的に検討していくことで、少しずつでも近代における女性画家の活動の実態を明らかにしていければと考えている。⑵若桑みどり『女性画家列伝』、岩波書店、昭和60年10月、163-171頁参照。⑶たとえば山本光正「近世・近代の女性の旅について─納経帳と絵馬を中心に─」『国立歴史民俗博物館研究報告』第108集、国立歴史民俗博物館、平成15年10月など、歴史学とりわけ交通― 231 ―― 231 ―
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