史の分野では、近世・近代に多くの女性たちが旅をしていたことが明らかにされている。⑷上村松園「一文絵が好き」『新小説』第15年第7巻、春陽堂、明治43年7月、11頁参照。⑸「よみうり抄」『読売新聞』、明治44年4月29日、5面参照。⑹川村文芽「閨秀画伯の面影 奥原晴翠女史の山水画と上村松園女史の美人画と」『婦人世界』第3巻第13号、実業之日本社、明治41年11月、63頁。⑺「消息」『美術新報』第14巻第10号、画報社、大正4年8月、32頁参照。⑻拙稿「武村耕靄と明治期の女性日本画家に関する研究」『美術研究』第427号、東京文化財研究所、平成31年3月。⑼前掲注⑻、19頁参照。⑽前掲注⑻、30頁参照。⑾たとえば『写生帖』8には、「明治癸卯/四月廿四日/和歌浦」との記載がある図が含まれることから、明治36年4月よりの近畿・四国旅行の際に使用されたものであることが知られるが、『写生帖』8にはさらに、広島の厳島神社や、山口の錦帯橋と思しき図が含まれ、この旅行の際に耕靄がそれらの場所まで足を伸ばしていた可能性も考えられる。また、明治42年8月に鎌倉・二階堂の別荘が出来て以来、耕靄は鎌倉と東京を頻繁に行き来しているが、それらについては割愛している。⑿耕靄の日記明治21年1月5日条には、「本日午後一時より試筆びらきを催す門人の来者ハ脇屋耕雪女史 牧野晴靄女史(後略)」との記述が見られ、それぞれ脇屋貞子、牧野英子のことであると推測されるが、現在のところ確証は得られていない。⒀『写生帖』1には、「塔ノ峯阿弥陀寺開山栖居ノ石窟」「堂ヶ島 平松別邸庭園中」などの書き込みがある図が複数ふくまれており、この旅行中に描かれたものであると推測される。⒁前掲注⑻、28頁参照。⒂前掲注⑻、41頁参照。⒃前掲注⑻、47頁参照。⒄拙稿「研究ノート 栗原玉葉に関する基礎研究」『美術研究』第420号、東京文化財研究所、平成28年12月、45頁参照。凡例文献等からの引用における漢字表記は、原則現行の書体に改め表記した。耕靄の日記はすべて執筆者が翻刻を行った。『耕靄集』(昭和6年)にすでに翻刻・掲載されている分に関しても、改めて原本からの翻刻を行った。原本における抹消、誤字の上からの正しい字の重ね書き、脱字の書き込み等は、その訂正後の形を採用した。付記本稿に関する調査におきましては、岡田勢一郎氏、小泉享世氏、西村史子氏、藤原建明氏に多大なるご高配を賜りました。ここに記して厚く御礼申し上げます。― 232 ―― 232 ―
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